昭和初年に文藝春秋社に編集者として在籍した小里文子(おり・ふみこ)について、われわれが知り得ることはあまりにも少ない。
小説『幻の朱い実』の大津蕗子が主人公・明子と同じ「麗和女子大」の二年先輩にあたるとの記述がもしも事実を踏襲しているなら、小里は石井と同じ日本女子大の出身(ただし学科は異なる)、卒業は石井の二年前の1926年春ということになろうか。
卒業後間もなく(あるいは在学中すでに?)彼女は菊池寛の主宰する文藝春秋社に出入りし、編集の仕事に携わっていたと推察される。
小里文子の名が文学史に辛うじて留められているのは、彼女と作家・横光利一との親密な関係ゆえである。
1926年6月、若い妻キミを結核で喪った横光は、翌27年4月、日向千代と再婚に至る。その一年足らずの間隙を縫うように、横光はごく短期間であるが小里と同棲生活を送っていた。そのときの経緯を、横光は短篇『計算した女』(『新潮』1927年1月号初出)に書き記している。同作では妻を結核で亡くして悲嘆に暮れる「彼」の前に、「妻の亡くなった半ヶ月目」、同じく結核を患う若い女性「お桂」が出現し、「彼」をさんざん翻弄した末に、忽然と姿を消すさまを、ふたりの会話によって生々しく、同時に観念的に書き綴ってみせた。
横光と小里のこの鮮烈なラヴ・アフェアは周囲の人々に忘れがたい印象をもたらしたとおぼしい。それから二十年以上ものち、横光利一の死に際して菊池寛が綴った追悼文「横光君のこと」のなかにもそのことが出てくる。菊池の回想はかなり朧げだが、昭和二年(1927)前後のこととしてこう記す(『文藝春秋』1948年2月号)。
[…]その頃は、既に横光君は、最初の奥さんと死別してゐたのである。まもなく、僕の所に出入してゐた小里さんと云ふ女性と恋愛した。この女性は、女子大の出身で文章も上手で近代的な女性であつたが、異常な性格で、恋愛してからすぐ、横光の寝てゐる蚊帳の中へ(わたし、そこへ入つてもいゝ)と行つて、一しよに寝た位奔放であつたが、横光君と同棲しながら、つひに身体をゆるさないと云ふ女であつた。こう云ふ女にかゝつては、性愛技巧などは全然知らない横光は、どうにもならず相当悩まされたらしく、間もなく別れてしまつた。
いやはや、さんざんな書かれようである。横光の小説といい、菊池の回想といい、いずれも男性側に立った言い分なので、そのまま鵜呑みにすることはできないが、小里について「男を翻弄する身勝手な悪女」というイメージが関係者の間でどうやら共有されていたと推察される。
実はこのあたりのエピソードはほとんどそのまま、石井桃子の『幻の朱い実』にも取り込まれている。冒頭で明子が荻窪を散歩中、偶然に蕗子と再会を果たした場面での次のような文章。
蕗子は、在学中から有名な作家たちとつきあっていたという噂だったし、卒業すると間もなく、新進作家溝口秀樹と同棲し、すぐまた別れたと聞いた。しかも、溝口が蕗子をモデルに小説を書いたというので、同窓生のあいだでは、彼女は伝説的な存在にさえなっていた。明子にとっては、いままでのそうした噂そのものが、蕗子を自分とはちがう世界の人間と考える原因となっていたのだが。
あるいは、しばらくして大学時代の友人・志摩子が主人公の明子を訪ねてくる件り。
「あなた、溝口さんの書いた『化粧する女』って短篇読んだ?」
明子は読まないといった。
「読んでごらんなさいよ。どうしても、蕗子さま、変態だって気がするから。」
そして、親切にも、志摩子は、勤務先の書庫から『化粧する女』の載っている古い雑誌を借りてきてくれた。
「お貞は、私の妻が死んで半月後、すでに私の家に寝起きしてゐた。」と、その小説ははじまっていた。
蕗子がお貞? 明子は、ちょっととまどった。その小説には、電話で美容室に特別の美容法を依頼して自動車で乗りつけ、輝くように美しくなって帰ってくる女のことが書いてあった。そして、お貞は、主人公の「私」に「愛して、愛して。女は愛がなければ生きてゆかれないのよ」と迫る。彼女の追求を逃れるために、「私」は「愛する」といってしまおうかと思う。しかし、それをいえば、あとに結婚生活がくる。しかも、お貞は肉体的な関係は拒否しているのだった。「愛して、愛して」とくり返しながら、ついに征服できなかった男を憎んで、お貞は家を出てゆく。
なるほどこれは横光利一の短篇『計算した女』とほとんどおんなじ筋書だ。ここでちょっと横光の原文の一節を引こう。
「ね、ね、あなたは私を愛してゐて下さるんでせう。」とお桂は拗く訊ね出した。
彼はいつまでも黙つてゐた。すると、お桂は急に彼を睨みながら、一振の刀のやうに青くなつた。「しかし、あなたは、何ぜそんなことを訊きたがるんです。愛と云ふ言葉は、訊くものでもなければ、云ふものでもないものですよ。」
「だけど、だけど、私、訊きたいの、訊きたけりや、訊いたつていいでせう。」
「いや、愛と云ふ言葉を口にするものは、必ず何かの目的を持つてゐる。それが僕は嫌ひです。」
「でも、私は、女です。愛がなければ。」
「愛、愛、なんて、そんな話はやめて貰ひたい。僕はあなたに対して、何の目的も持つてゐない。」
『幻の朱い実』の主人公・明子は「埃くさい雑誌を寝床のわきに放りなげながら、この小説はどう読むべきなのだろうかと考えた」。「あちこちに、いかにも蕗子がいいそうな警句がちりばめてある」と認めつつも、どうにも違和感を覚え、「その小説が、蕗子という女の面目、または真髄を描きだそうとしたのなら、どこかでまちがっている」と思わずにいられない。
数日後、蕗子の家を訪れた明子は、抑えきれずにこう訊ねてしまう。
「……あたし、志摩子さんに借りて、溝口さんの『化粧する女』読んだんです。」
「なんだ。だから、さっきからおかしなこというと思ってた。」
「あたし、あれ、大津さんのこと書いたなんて思えませんでした。」
「あたしじゃないもの。」蕗子はあっさりいった。
「でも、よくわからないけど、物を書くひとの間じゃ、大津さんだと思えるように書いてあるんでしょう? あんなふうに書かれて、公表されていいんですか?」
「いいってことはないわよ。そりゃ、あたしだって、あれが出たときは怒りましたよ。だって、あのひと、死んだおくさんの家族への言いわけに書いたとしきゃ思えないもの。おくさんが死んでひと月もたたないうちにあたしを好きだっていいだしたんだから……。あのひとね、いつか二人で映画見てたとこを亡くなったおくさんの兄さんに見られちゃったの。そしたら、とてもあわてたの。つまりあたしたちいっしょに暮してても、何でもないってこと、書かなくちゃならなかったんだと思う。」
(明日につづく)