結核に冒された親友・蕗子の生命はまさに風前の灯である。彼女に読ませるため明子が一心に取り組んでいる「お話」の完成ははたして間に合うのか。
それからあとの火曜日は、ふしぎに二度ほど好天がつづいた。おかげで明子は片手に荷物、片手に雨や雪をよけるための傘をにぎりしめという厄介もなく、身軽く蕗子に会いにゆくことができた。そして、蕗子、明子共ども、心から祝ったのは、明子が手がけた「お話」の翻訳が上下二巻とも終って、蕗子の手許に収まったことであった。
上下二巻とあるのは『熊のプーさん』と『プー横丁にたった家』の二冊を指しているのだろう。蕗子は辛くも生き永らえて、このふたつの物語の日本語での最初の読者となることができた。1936年2月のことだ。
そして3月29日の未明、蕗子の生きるための闘いにピリオドが打たれる。
言うまでもなく、これはあくまで小説のなかの虚構にすぎない。主人公の明子をそのまま石井桃子と同一視することは慎まねばなるまい。そもそも、女子大を出た明子は文藝春秋社ではなく、「世界婦人協会」なる団体に就職しており、おまけに物語の中盤で、熱烈な恋愛の果てに幼馴染と結婚にまで至っている。「ほらね、明子は私じゃないのよ」と作者は言いたげである。
とはいうものの、大津蕗子として造型された女性は、石井桃子の実在した年長の友、小里文子とあまりにもよく似通っている。調べれば調べるほど、両者はまるで瓜二つではないか、との思いが募るばかりである。
今日たまたま広尾の都立中央図書館へ出向く用事があったので、大津蕗子=小里文子の編集者時代を探るべく、あれこれ関連書籍・雑誌を渉猟してみた。
なにぶん八十年近く前のことなので、判明する事実には限りがあるが、昨日の近代文学館での調査と照らし合わせると、朧げながらひとりの勝気で魅力的な女性の姿が浮かび上がってきたようだ。次回はそのあたりを書こう。
(明後日につづく)