[…]とりわけ、私が深くプーに感謝したのは死を前にしたある友だちを、プーが限りなく慰めてくれた時でした。
ある時、その友だちがふざけて、私に言つてよこしました──「誰でも行くといふ三途の河原といふところへ私も行つたら、幼くて亡くなつた子供たちを集めて、幼稚園を開きたい。でも、その時、プーが日本語を話してゐないと、私はどもつてしまひます。」 […]
『熊のプーさん』の翻訳のそもそもの発端について、石井桃子は1940年の段階でこのように回想している。重い病の床に臥した友、小里文子にこの物語を読ませたい一心で、その生命の灯が消えぬうちに訳了すべく努めたことが推察される。
自伝的小説『幻の朱い実』にも、上に引いた小里の言葉とそっくりの表現が出てきてハッとさせられる。結婚した主人公・明子の許に届けられた親友・蕗子からの手紙の一節である(以下の引用で、旧かな遣いの箇所はすべて蕗子の書面)。
いかによく晴れても、あなたのお出でなくては、恋人に金がないのとおなじだと思つてゐたら、厚い封書! しかし、それさへ、厚いために落ちずに戸の隙間にはさまつてゐた巨大な封筒の手ざはりは、ふしぎに私の心をときめかせなかつた。この厚さと重さ全部が「あなたの手紙」であらうとはどうしても望めなかつたからです。けれども、出てきたのが、我らの「お話」のほんやくとわかつた時は! 実に久々に私は、大きく喉をならしました。ほんとにいいこと思ひついてくださつたのね。ありがたう。あなたがこの「お話」を、私の「旅立ち」に間にあふやう訳し終へられるのであればいいが。でなければ、私は思ひ出し思ひ出し、訥々としか話してやれないで、私が三途の河原で開く託児所は門前雀羅となるでせう。(一九三五年六月九日)
「門前雀羅(もんぜんじゃくら)」とは今や耳慣れない表現だが、「客がよりつかぬ」さま。「閑古鳥が鳴く」と同じような意味だろう。
そのあと蕗子の結核は進み、喀血、そして江古田の療養所入院となるのだが、その間も明子の訳稿は少しずつ仕上がり、仕上がるそばから親友の許に届けられる。
原稿在中の封筒、拝受。ああ、かうだつた。かうだつたと、あなたから直接お話聞いたときのこと思ひだし、涙ぐみつゝ読みました。そして、くり返し読んでゐます。「スグ アトオクレ」。しかし、でき得べくんば、あなたの手に握られてくる方を望みます。(同年七月末)
明子が見舞いに訪れ、その場で「あの愛すべき幼い動物たちの『お話』の原稿のつづき」を読んで聴かせることもたびたびだった。
「何にしてもよかった! こんなふうにぶじ入院できて。花の水、取りかえたりするとこ、どこ?」
「少し先までゆくと、便所があって、そこに広い洗面所がある。清潔よ。きっと女子アパートのより、ずっときれいだわ。」
明子は、その日は、あまり蕗子にしゃべらせない覚悟で、もう終り近くなった「お話」の原稿をもって出かけていた。彼女は、手早く花を活けかえ、持参の品物をおさめるべきところにおさめてしまうと、椅子にかけて少し話してから、原稿を読みはじめた。(十一月十七日)
きのふはたのしかつた! これからは、お出での度にたくさん原稿朗読してもらふことにしようとくり返し思つたことでした。我々の願ひ通り、あなたは声を出し、私は出さないですむんだもの。もつとも笑ふのだけはやめられないけど。あなたの声静かだから、どつちの隣からも文句出ませんでした。けふは原稿黙読してゐます。頭の中であなたのイントネーションをまねて。あなたは、どうしてこの小さい者たちの性格のなかへ、こんなにするすると入つていかれたの?(十一月二十七日)
一九三五年も押し詰まった頃、蕗子の病状はいよいよ悪化の一路を辿った。
しかし、その頃でさえ、形見分けの話をのぞけば、ふたりは会う度によく笑った。[…]もう面会時間を無視しても、医者も看護婦もあまり明子にはきびしくいわなかった。蕗子のベッドのわきにかけて、なるべく隣室に邪魔にならないように読みつづけ、しゃべりつづけ、笑いつづけ……そのじつ、二人が笑ったのは、「お話」に出てくるぬいぐるみのクマのことでも、子ブタのことでもなく、残り少ない二人の時間を惜しんでいたのではなかったろうか。
(明日につづく)