この三月、百回目の誕生日を迎えられた石井桃子さんに捧げるべく、拙ブログでも彼女の若き日々を時系列で辿るささやかな連載を試みた。
その際に最も悩んだのは、彼女が自らの青春時代を念頭において綴った自伝的小説(半自伝といおうか)『幻の朱い実』(1994刊)の取り扱いである。
主人公の明子と、その女子大時代の先輩で、彼女の生涯に大きな影響を及ぼした親友、蕗子(ふきこ)との友愛の日々を綴ったこの長篇は、明らかに石井桃子自身と、その年長の友人で文藝春秋社の元編集者だった小里文子(おり・ふみこ)との、短くも親密な交友を下敷きにしている。『熊のプーさん』と『プー横丁にたった家』の訳稿がもともと、結核で死を目前にした小里を楽しませる目的で綴られた、という史実に照らしても、本書は看過し得ぬ価値を有することは疑いない。
ここで煩を厭わずに、石井桃子が1940年12月刊行の『熊のプーさん』初版(岩波書店)の「あとがき」で記した文章をふたたび引用しておこう。
はじめて私が、プーといふ熊を知つたのは、いまから七年前の十二月二十四日でした。
その日、私の小さい──その時は小さかった──お友だちの犬養道子さんをお訪ねすると、道子さんたちのクリスマス・トリーの下においてあつた、朱色のカヴァーのかゝつた薄い本、それがこの「熊のプーさん」(もとの名は "Winnie-the-Pooh" といひます)の後篇、「プー横丁に出來た家」"The House at Pooh Corner" でした。
私たち──道子さんや、まだ小學校へも上らなかつた、道子さんの弟さんの康ちやんや私は、なんといふこともなく、ストーヴの前で、その本を讀みはじめたのです。けれど間もなく、ストーヴのそばは、大さわぎになつてゐました。その時、一ばん、ヤケドしさうにころがつて笑つたのは、「彼」とは「ぼく」のことかと思つたといふ康ちやんだつたでせう。でも、こつそり、一ばんひどいプー熱にかゝりかけてゐたのは、案外、大人の私だつたかも知れません。
その後しばらく、私たちは、會ふ毎にプーを語り、手紙毎にプー語を書き、そしていつの間にか、プーの生みの親を、お友だちでも呼ぶやうなつもりで、ミルンさんなどと呼んでゐました。[…]
それから七年間、いろいろのことがあつて、私たちはいつも、プーの話をしてゐたわけではありません。でも、プーのあの丸々した、あたゝかい背中はいつもそばにありました。その背中は、私たちが悲しい時、つかれた時、よりかゝるには、とてもいいものなのです。とりわけ、私が深くプーに感謝したのは死を前にしたある友だちを、プーが限りなく慰めてくれた時でした。
ある時、その友だちがふざけて、私に言つてよこしました──「誰でも行くといふ三途の河原といふところへ私も行つたら、幼くて亡くなつた子供たちを集めて、幼稚園を開きたい。でも、その時、プーが日本語を話してゐないと、私はどもつてしまひます。」 そんなわけで、私がその友だちのためにした拙い譯を、今度本にすることになりました。愛情と機智で出來上つてゐるやうなミルンさんの本を前にして、私は全く、ある時のフクロのやうに、手も足も出ない気持です。それでもなほ、この本を、私の手からみなさんにお贈りするのは、もう一度、ミルンさんの言葉をお借りするなら、こんなに長い間かはいがつてゐたプーを、ひと手に渡すことが出來なかつたからです。
文中の朱い色で示した部分に、「死を前にしたある友人」とあるのが小里文子であり、この小説における、主人公の熱烈な思慕の対象たる「大津蕗子」のモデルその人なのである。
『幻の朱い実』にも、それとタイトルを名指しはしないものの、明子が蕗子に『熊プー』の一節を語って聞かせる記述がほうぼうに出てくる。一例を挙げるなら、偶然の再会を経て、二人の女が荻窪の蕗子の家で急速に親しくなっていくくだり。
[…]休日に彼女たちがいっしょにすごすのは午後早くから夜八時すぎまでであったから、その間には、蕗子がふと頭に浮ぶままに歌を朗詠するとか、明子が愛読するイギリスの子どもの本の断片を語ってきかせるなどする余裕も十分にあった。そういうことからも、渾名や隠語がたくさん生れた。渾名の例でいえば、明子がきかせた「お話」のなかに、学者ぶった、ぬいぐるみのフクロウがいて、自分の名のOWLの綴りをまちがえて、WOLと書くのであった。その話に抱腹絶倒した蕗子は、加代子[=近所に住む知人]の夫の雅男にウォル、時にはもじってウォルターという渾名をつけた。[…]
このWOLとはすなわち『熊プー』に出てくる「フクロ」である。
(明日につづく)