マルタ・アルヘリッチがソロを弾かなくなってからもう久しい。
協奏曲やピアノ・ドゥオ、室内楽には嬉々として興ずるのに、ピアノ・リサイタルからはほぼ完全に手を引いたまま、虚しく二十数年が過ぎ去った。独奏曲のレコーディングも1983年のシューマンを最後に、四半世紀近く中断されたままだ。
アルヘリッチのような才能と同時代を共有する僥倖に恵まれながら、その独奏を聴く機会をみすみす奪われるなんて、そんな理不尽なことがあっていいのか。そもそも時代を代表するピアニストが現役でありながらソロを弾かないという事態は、音楽史上ちょっと前例がないのではないか。
理由はよくわからない。聴衆の注目が自分ひとりに集中するプレッシャーに堪えられないのか。あるいは、もう弾くべき曲はすべて弾いてしまったというつもりなのか。彼女の口から満足のいく説明は与えられてはいない。
願わくは彼女の弾くバッハをもう一度、生で聴きたい。
もっとも、バッハの独奏曲に関しては、アルヘリッチは次の三曲しか演奏しない。
トッカータ ハ短調 BWV911
パルティータ 第2番 ハ短調 BWV826
イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV807
彼女は本当に納得できる曲しか採り上げないのだ。そのかわり、この三曲に関する限り、それはもう混じりけなし、至純にして至高のバッハなのであって、古今のどんなピアニストも、さしものグレン・グールドだってこれには敵わない。
試しにハ短調のトッカータを聴いてご覧になるがいい。
単刀直入、天衣無縫、なんの懼れもこわばりもなしに、さらりと、さりげなく音楽の懐に飛び込んでいく。その率直さが何よりも魅力的なのだ。
それでいて、至るところに閃きと啓示が待ちうけている。終わり近く、フーガが幾重にも畳みかけるように展開された挙句、思いがけず短調から長調へと転じるあたり、雲間からサッと一筋の陽光が射すようで、まことに感動的である。これこそがバッハなのだと誰もが息を呑む瞬間であろう。
黒澤明の言い草ではないが、これぞ「天使のような大胆さ」で奏されたバッハなのだ。
何はともあれ、アルヘリッチがこの三曲をレコーディングしてくれたことに感謝しよう(
→これ)。1979年2月のことである。
私見に拠れば、グレン・グールドは間違いなくアルヘリッチのこの演奏を聴き知っていた。それが証拠に、そのすぐあとに彼がレコーディングした同曲は、これを超えようとして果たせず、なんともいえず複雑に屈曲し、奇妙に捩じくれた解釈に堕してしまっている。これこそ「悪魔のような細心さ」が裏目に出たバッハなのである。