予定が変更になって急に暇ができたので、朝から渋谷で映画を観ることにする。
今にも雨が降りそうな雲行きを尻目に、道玄坂を上り、百軒店を抜けてラヴホテル街をやり過ごす。全くなんという場所にあるのだろう、とひとりごちながらシネマヴェーラ渋谷に到着。八月後半からここで連日やっている特集「ユナイテッド・アーティスツの栄光」、今日の二本立は見逃せないと思ったのだ。なにせ『マンハッタン』(1979)と『ロング・グッドバイ』(1973)だものね。とりわけ後者は命あるうちにぜひスクリーンで再見したいと念願していたものだ。
『マンハッタン』はこれが五、六度目だろうか。最初に観たのは1980年1月22日、場所は失念したが有楽町か銀座界隈、この映画の試写会だった。当時、大学生協のプレイガイドで働いていたので、役得としてときどき招待葉書が貰えたのである。たしかこのときは家人や友人のY君と一緒だったような気がする。
今日、久しぶりにワイドスクリーン上映で、初めて観たときの驚愕を思い出すことができた。なんといっても冒頭のシーンが凄い。ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が奏でられるなか、ニューヨークの街並が静止画像ふうに矢継ぎ早に映し出される。画面はモノクロだ。いきなりなので度肝を抜かれる。そこにウディ・アレンのナレーションがかぶさる。小説の書き出しらしく、言い回しを替えつつ何度も繰り返される。いつしか「ラプソディ・イン・ブルー」はクライマックスに差しかかり、マンハッタンの夜景に花火が続けざまに炸裂するシーンで終わる。
正直なところ、この映画の最大の見所は冒頭のこのシークエンスなのではないか。そう軽口を叩きたくなるほどに、息を呑むような風景の連続だ。そこにガーシュウィンを重ねるとはウディ・アレンはあざといなあ、と思いつつ、今回も溜息をつきながらつい見惚れてしまう。撮影監督ゴードン・ウィリスの腕は冴えわたっている。
そのあとの展開はご存知のとおり、こと細かく書くまでもあるまい。うだつの上がらぬ四十二歳男が前妻(メリル・ストリープ)、友人の浮気相手(ダイアン・キートン)、二十五も年下の恋人(マリエル・ヘミングウェイ)の間で右往左往するというコメディだ。芳紀十七歳のマリエル嬢は無論のこと、誰も彼もがずいぶん若いのに驚いてしまう。二十七年前に観たときはウディ・アレン扮する中年男の一喜一憂にためらわず失笑したと思うのだが、今や当方がそれを遙かに上回る年齢になってしまっている。生身の人間はいざ知らず、フィルムは歳をとらないのだなあ、とつくづく実感。
続く『ロング・グッドバイ』はカラー映画なので、褪色などフィルムの状態が危惧されたのであるが、大丈夫、上質なプリントで観ることができて幸せだ。先日、インタヴュー集『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社、2007)を熟読したばかりなので、そこでのアルトマンの発言のあれこれがしきりに脳裏をよぎる。
冒頭の猫のシークエンスは元の脚本にはなかったこと。友人の飼い猫がある特定のキャットフードを選り好みするという実話をそっくり採り入れたのだという(チャンドラーの猫好きを意識したのではないらしい)。
マーロウは謎めいた美女の依頼で、マリブの砂浜沿いの豪邸に出かける。そのあと繰り返し登場するこのリゾートハウスふうの瀟洒な家は、何を隠そう、アルトマン監督の自宅なのだという。この海辺のシーンは何度観直しても、現実とは思えない夢の出来事のような美しさだ。撮影監督のヴィルモス・ジグモンドはこの映画を撮影するにあたり、ほとんどのシーンで、予めわずかに露光させたフィルムに重ね撮りする「フラッシング」と呼ぶ特殊技法を駆使したのだそうだ。実際に現像するまで吉とでるか凶とでるかわからぬ、スリリングな撮影法とのこと。今回のプリントでも、そのあたりの微妙なテクスチャーは充分に感得できた(拙宅のTV画面ではとても無理)。
この映画で誰もが吃驚してしまうのは、チャンドラーの原作とは異なり、ラストシーンでマーロウが親友のテリーを殺害してしまうところだろうが、これは案に相違して、もともとの脚本にあった場面なのだという。
[…]で、リー・ブラケットの脚本を読んだら、彼女のバージョンでは最後にマーロウが銃を取り出して親友のテリー・レノックスを殺すんだな。これはもうマーロウらしさからかけ離れているんでね、よし、この映画やるよ、ただしエンディングは絶対、変えないでくれと。その一文を契約に入れてくれと要求した。まさかと思ったが、これに全員が合意した。彼女があの結末を書いていなかったら、賭けてもいいが絶対に私はこの映画をやっていなかったな。あの結末、あそこで「たかが映画さ」といっているんだ。親友を撃った後、道を往くマーロウにちょっとダンスの真似などさせてさ、「ハリウッド万歳」の旋律が聞こえてくる。まさにそう、ハリウッド万歳って映画だ。あのエンディングの道、あれがハリウッドの撮影所へと通じる道とさえみえるだろう。そこにアイリーン・ウェイドが運転する車がやって来てマーロウとすれ違う。『第三の男』なんだな!
さすがアルトマン御大はすべてお見通しなのだ! 確信犯だったわけですね。
忘れてならないのは、マーロウにエリオット・グールドを抜擢したキャスティングの妙。これについてもアルトマンは縷々語ってくれている。
[…私は]最初はレイモンド・チャンドラーはやりたくないと言ったよ。フィリップ・マーロウの名を口にした途端、みんなハンフリー・ボガートを思い浮かべるんだからとね。あの企画にはロバート・ミッチャムの主演が望まれていた。私としてはとにかくフィリップ・マーロウ映画をまたもう一本やって結局、他の映画と変わりばえしないものを作ってしまうなんていやだったんだ。
マーロウ役にエリオット・グールドを提案したのは確かユナイテッド・アーティスツの製作主任だったデヴィッド・ピッカーだったと思う。これで俄然、やる気になってさ。[…]
[…]いろいろ読んだところによれば、チャンドラーが書いたものの実態、山と残した寸描、エッセー、どれもが実はロサンジェルスに関するもので、マーロウは単なるまとめ役として考案されたのにすぎなかった。私たちの映画はそんな実態にかなり迫るものだと感じているよ。みんながエリオットはフィリップ・マーロウじゃないと言った。私の選択が作家の意図に沿っていないと。しかし実の所、彼らが言っているのはエリオットがハンフリー・ボガートではないってことなんだな。本当をいってマーロウを映画のスーパースターのように描いた他のどんなものよりも私たちの映画のマーロウがチャンドラーの書いたキャラクターに近いと私は信じてる。
おっしゃるとおりですよ。このエリオット・グールドのマーロウを認めるか否かは、本当の映画好きかどうかを見極める試金石なのだと小生は密かに信じている。
後年、松田優作が港町のしがない私立探偵に扮する工藤栄一監督作品『ヨコハマBJブルース』(1981)を観たとき、プロットや舞台設定から主人公の造形に至るまで、すべてが『ロング・グッドバイ』を下敷きにした形跡が明瞭なのに驚かされた。もちろんこれはパロディではあり得ない。先行作への敬意と愛情に満ちたオマージュに違いないのだ。