アーサー・ケストラー Arthur Koestler という作家を一言で要約することは誰の手にも余る。
1905年、ブダペストでハンガリー系ユダヤ人の父とオーストリア人の母の間に生まれ、ウィーンで苦学しながら自然科学を学んだ。その後シオニズム運動に共鳴しパレスチナで移民として農業に従事したのち、ドイツの新聞雑誌社ウルシュタインに務め、パリとベルリンで科学記事を書いた。ナチスの台頭期の1931年に共産党に入党し、ソ連滞在を経てパリへ亡命。スペイン市民戦争では共和国側の従軍記者となるが、フランコ軍に捕えられ死刑を宣告される。英国の介入で辛うじて難を逃れ、その後は英国に定住。一連の体験を『スペインの遺書』に著す。さらに現実の共産主義に幻滅して1938年に共産党を離党、その全体主義性を暴いた小説『真昼の暗黒』を著し、世界的な反響を呼んだ。戦後は英国国籍を得て、著作も英語で執筆、独創的な天文学者列伝『夢遊病者たち』のほか、『偶然の本質』『機械の中の幽霊』『ホロン革命』など、自然科学と人文科学の垣根を越えた旺盛な執筆活動を行った。
…とまあ、こんなところだろうか。『サンバガエルの謎』の原書は1971年刊。最初の邦語訳は1975年に出た。そのときはまだケストラーは矍鑠たる現役作家だったので、彼がこの忘れられた生物学者の自殺の真相に、なぜかくもこだわるのか、訝しく思えたものだ。
今回の読後感はまるで異なる。それはひとえに、ケストラー自身が自殺という形で人生に終止符を打ったという、動かし難い事実を知ったうえで再読したからだ。
1981年3月1日の夜、ケストラーは夫人とともに服毒自殺を遂げた。永年患ったパーキンソン病の悪化、さらには白血病の進行によって、自らの限界を悟り、かねてからの主張どおり、安楽死の道を選んだのである。シンシア夫人を道連れにしたのでは、と周囲は死者を咎めたが、彼女の遺書には「アーサーのいない人生には堪えられません」とあったので、自由意志による死とわかったという。
衝撃的であるとともに不可解でもあったケストラー夫妻の死と、そこに到る道筋については、永年にわたる親友で、同じハンガリー出身の作家であるジョージ・ミケシュが『ふだん着のアーサー・ケストラー』(原書 George Mikes, "Arthur Koestler: The Story of a Friendship" 1983/小野寺健訳、晶文社、1985)という本を捧げ、心のこもった註釈を加えている。
今日は久しぶりにこの小さな本を再読した。盟友の死という厳粛な事実を前に、哀しみを堪え、淡々と、愛情に満ちた筆致で、ときにユーモアを交えて綴る語り口が心に沁みる。
あまり見かけない本だが、黄色い地にくっきりと黒の書き文字、平野甲賀の面目躍如たる装丁が素晴らしい一冊だ。