(承前)
『マイ・フェア・レディ』をめぐる連載エッセイ、7月21日のエントリー(
→ここ)からだいぶ間があいたが、先を続けよう。
ミュージカル『マイ・フェア・レディ』は、というよりむしろ、その原作であるバーナード・ショーの戯曲『ピグメイリオン』は、というべきであろうが、英国という徹底した階級社会を前提とした「言葉とアイデンティティ」をめぐる物語である。
ヒギンズ教授はなんの躊躇もなく、花売り娘のイライザに暴言を放つ。邦訳『ピグマリオン』(倉橋健訳、白水社)から一節を引こう。
そんな、不景気な、むかつくような声をだす女は、どこにもいる権利はない──生きる資格だってないんだ。いいか、お前だって、魂をもった人間なんだ、ちゃんと正確にしゃべる能力(ちから)を神さまからあたえられているんだ。お前がしゃべっているのは、シェイクスピアや、ミルトンや、バイブルをうんだ国のことばだぞ。いつまでもそんなところにすわって、鳩が豆鉄砲くったみたいに、くうくう泣いているんじゃない。
ちなみに、この台詞はそっくりそのまま、アラン・ジェイ・ラーナーの『マイ・フェア・レディ』にも一字一句違えずに採用されている。
映画『マイ・フェア・レディ』を観るたびにつくづく思うのだが、冒頭のコヴェントガーデンの場面はなんとまあ、よくできていることよ。
夜遅く。コヴェントガーデンの王立歌劇場(ロイヤル・オペラ)で舞台がはねて、正面玄関から着飾った紳士淑女がそぞろ歩み出てくる。するとそこは青物・生花市場で働く者たち、仲買人や運び屋や花売り娘たちがそこここに屯している。
実際のロンドンがそうなのだ、といえばそれまでだが、ここコヴェントガーデンでは煌びやかな王立歌劇場と、雑然猥雑たる「やっちゃば」とが軒を接するばかりに隣り合っているのである。サントリーホールかオペラシティの隣りがいきなり築地市場、とでもいった光景なのだ。厳然と身分によって区別され、住み分けているはずの上流階級と下層民とが、ゆかりなくもここで接近遭遇を果たす。
このコヴェントガーデンという奇妙なトポス=場に着目したところに、劇作家バーナード・ショーの天才が如実に表れている。
その晩も貧民たちのコクニー訛りの採集にコヴェントガーデンを訪れたヒギンズ教授は、さらに続けて豪語する。ここはラーナーの台本から拙訳してみようか。
ほら、この娘のは「道ばた英語 kerbstone English」って奴でね、これじゃあ死ぬまで貧民窟から這い出られっこない。でもね、私なら六か月もあれば、この娘を公爵夫人という触れ込みで、大使館の舞踏会に送り込んでみせますよ。まあ、貴婦人のメイドか、売店の手伝いか、上等な英語が必要な仕事に就けてみせましょう。
この気紛れな大言壮語から、世にも奇妙なシンデレラ物語は始まる。ヨレヨレのキャベツの葉(squashed cabbage leaf) を、シバの女王に仕立て上げてみせようというのである。
(まだ書き出し)