昨日の続き。話題は歌舞伎座で観た『NINAGAWA 十二夜』である。本当のことを言えば、あれほどの舞台を見せつけられたら、誰だってもう「黙るしかない」。ただ、息を呑んで事の成り行きを凝視するほかなかったからだ。
手短にいくつかのポイントのみを記そう。
まず、蜷川幸雄のシェイクスピア演出は本来きわめて歌舞伎的だということ。
けれん味たっぷりで、アッと耳目を驚かすスペクタキュラーな仕掛けや様式的な演出は、むしろ歌舞伎そのものを出自としていると推察される。蜷川はこれまで「歌舞伎にだけは手を出さない」と公言していたというが、それは彼自身、そこから多くを得ているのを自覚していたからだろう。
『NINAGAWA 十二夜』はその彼があえて禁を破り、「歌舞伎国に留学するつもりで」初めて取り組んだ歌舞伎演出だったのだが、その留学先とは実は彼の生まれ故郷でもあったのだ。
実際、「どう華々しく見せるか」「どうすれば観客を魅了できるか」に関して、蜷川と歌舞伎との協働作業は「けれん味の相乗効果」というべき、恐るべき効果を発揮する。第一幕の冒頭の十数分の凄まじさといったら!
もうひとつ印象的だったのは、役者たちの台詞回しの巧さ、口跡の良さ。
「あたりめえよ」と言われそうだが、改めてそのことを思い知らされた。厖大な量の台詞(原作のシェイクスピアの台詞を極力生かしている)がどこをとっても淀みなく、隅々まで明瞭に聴き取れた。端役のひとりひとりに到るまでである。これって、凄いことですよ。恐るべし、歌舞伎役者たち。
しかもシェイクスピアが書いたのは韻文のテクストであり、日常生活とは異なる世界の言語である。歌舞伎の名調子が似合うのは蓋し当然なのだ。しかも、多くの場合そこには音楽が挿入され、役者の歌が披露されるといった「ミュージカル・プレイ」的側面も併せもっていた。どう考えても、これは本来「シンゲキ」であるよりはずっと「カブキ」に近い演劇だったに違いない。
さらに付け加えると、このことは扇田昭彦氏がパンフレットでも論じていたが、17世紀のシェイクスピア劇は歌舞伎と同様、男優のみで演じられる「野郎芝居」だったということ。
女性役はことごとく美少年俳優に委ねられ、それゆえ『十二夜』に代表される「男女取り違え」劇、「男装の麗人」ものが最大の効果を発揮したと考えられる。歌舞伎として演じられることで、シェイクスピア劇が本来の姿を取り戻す、という驚くべき現象が昨日、たしかに歌舞伎座で起こったのだ。
最後にもうひとつ。歌舞伎ならではの仕掛けである「早変わり」による一人二役がめざましい効果を発揮していたこと。
登場してすぐ菊之助がりりしい若者(斯波主膳之助)と可憐な乙女(琵琶姫)の早変わりで満場を沸かせたが、そのあと琵琶姫が男装して獅子丸になってからも、台詞のちょっとした抑揚や声音の変化で男女が瞬時に入れ替わり、交錯するという離れ業を演じてみせた。つまり一人三役なわけで、本当に凄い役者だなあ。
ちなみに生き別れた双子である斯波主膳之助(セバスチャン)と琵琶姫(ヴァイオラ)を一人二役で演じさせるという趣向は、昨日妹から聞いた話だと、かつて野田秀樹が大地真央で試みただけだという。
一方、菊五郎のほうも「息子に負けじ」とばかりに、権威をかさに着る公家(丸尾坊太夫)と、根っからの自由人(捨助)という、まるで対照的な二役を余裕綽々、実に楽しそうに演じていて、これも見ものだったなあ。
そのほか、深窓の姫君、織笛姫(オリヴィアですね)を品格高く演じた中村時蔵、賢くおきゃんな男勝りの侍女、麻阿(マライア)を見事に造形した市川亀治郎(TVでは武田晴信ですぞ)、悪ふざけぶりが可笑しいコミカルな左大弁洞院鐘道に扮した市川左團次など、誰もが凄い芸達者、役になりきって、楽しみながら演じているのが伝わってくる。
ああ、この舞台をわが黎明期の先人たち、坪内逍遙や小山内薫や松居松葉に一目見せたかったなあ。シェイクスピアを歌舞伎として演じるところまで、あなた方が種を蒔いた日本演劇は成熟したんですよ、と呼びかけたい気持ちでいっぱいになった。
この『十二夜』こそ、外国へ持って行くべきではないか。いつの日か、引越興行でこれをロンドンの観客に見せてやりたい。ほら、シェイクスピアは歌舞伎だったんですよ、と胸を張って言ってみたい。