もう日付が変わったので昨日になるが、目黒の東京都庭園美術館へ出掛けてきた。以前ここでカタログを紹介した展覧会「舞台芸術の世界 ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン」が釧路、京都を経て、いよいよ東京でも始まるのだ(7月26日~9月17日)。
昨日はそのオープニングがあった。この美術館もずいぶん久しぶりだ。ちょうど三年前、ここで「幻のロシア絵本 1920-30年代」展があったときは、一観衆ならぬ監修者という立場柄、三日と間をおかず足を運んだのに、その後はすっかりご無沙汰だ。目黒駅からの途中の煙草屋でゴールデンバットをカートンで購入。しばらく切らしていたのでありがたい。
太陽がまともに照りつけて焼けるように暑い。こんな炎天下、しかも大のオープニング嫌いの小生がわざわざ出向いたのは、ひとえに監修者のアラ・ローゼンフェルド女史にお目にかかりたかったから。全く面識はないので、自己紹介から始めねばならぬ。ちょっと緊張する。
早めに到着し、ざっと館内を一周。「ロシア絵本」展のときの思い出が染み込んだ展示室に、今回は同じロシアのバレエ関連の衣装デザイン画がずらりと並ぶ。疾うにカタログは入手済とて出品作はどれも承知しているが、こうして一覧するとさすがに圧巻だ。二百点近くあろうか。
前にも書いたが、本展は副題にあるディアギレフのバレエ・リュスについての展示はむしろ控えめで、同時並行的にロシア本国で、あるいは亡命ロシア人たちが欧米で繰り広げた舞台芸術を幅広く(意地悪く言えば、やや雑然と、だが)紹介することに、むしろ主眼がおかれている。日本側から薄井憲二さんのバレエ・リュス関連のコレクションが付加されて、多少ディアギレフ色は強まったとはいえ、展覧会の主眼は20世紀初頭のロシアの舞台美術を横断的に捉えることにあるとおぼしい。
ディアギレフ「以前」の、マリインスキー劇場で「アルミードの館」が初演されたときの舞台衣装もあれば、その歿後にベヌアやスデイキンがパリやNYでの上演用に手掛けた仕事、好敵手たる他の団体(とりわけニキータ・バリーエフの蝙蝠座)の活動、さらには革命直後のエクステルらの構成主義デザイン、はてはアジプロ劇の衣装デザイン、スプレマチズム・バレエのスケッチまで繰り出される。会場では個々の作品の意味がほとんど了解されず、ただ百花繚乱たる印象しか生んでいないのは勿体ない気がする。
もともと舞台美術は儚いものだ。上演時にのみ出現し、残像だけを残して消えていく。実際に着られた衣裳だって、肉体を喪った抜け殻同然だ。まして、片々たる紙切れでしかない衣装デザイン、舞台画の類いはまさしく「夢の欠片」。生の舞台を想像することはほとんど不可能に近い。そこにこの種の展覧会の難しさ、というか、空しさがあるように思われる。
とはいえ、実際にシャリャーピンが着用したボリス・ゴドゥノフの服をはじめ、稀少な衣裳の現物がペテルブルグから十点ももたらされたのは特筆されよう。とりわけ、「火の鳥」の衣裳(1921)はロシア革命後もストラヴィンスキーのバレエがペトログラードで上演されていたことの証として興味深い。
小生としては三年前の展覧会で同じ部屋に並んだ絵本の作者たち、ビリービンやドブジンスキーやアンネンコフやチェホーニンが亡命後にパリで手掛けた舞台美術のあれこれを眺めて、感慨なしとはしなかった。故郷喪失者の悲哀もそこはかとなく感じられる。
三時過ぎから簡単なレセプション。美術館の方にお願いして、監修者のアラ・ローゼンフェルド女史に紹介していただく。持参した彼女の著作 "Defining Russian Graphic Art" を示し、「ひょっとしてご興味がおありかもしれないと思い…」と前置きして、三年前のわが「ロシア絵本」展カタログを進呈すると、「ああ、日本で絵本の展覧会があったとは聞いていたけど、カタログを入手できずにいたの。これがそうなのね!」と表情を輝かせた。
彼女は上記の本でロシア絵本に一章を割いて論じているから、必ずや関心を示すと思ったのだ。その旨を申し述べたら、「私にはそれとは別に、絵本のことだけを論じた五百頁の著作があるのよ。もちろんテクストは英語。ニューヨークに戻ったらお送りするわ」とのこと。嬉しいなあ。土曜日の講演会のあとで再会することを約して別れた。いたって気さくな女性だったのでホッとする。年恰好は小生と同じ位か。
そのあと、もう一度ゆっくり会場を一巡し、美術館をあとにした。
日が傾いてだいぶ涼しくなったので、地下鉄の白金台駅まで歩き、そこから神保町へ。久しぶりに古賀書店で音楽書を漁り、吉田秀和の『音楽紀行』の初版やら、バーンスタインの「タヒチ騒動」のヴォーカル譜、フローラン・シュミットの「アントニーとクレオパトラ」のポケット譜やらを購入。御茶ノ水まで歩いてディスクユニオンへ。「ゴルトベルク変奏曲」の室内楽八重奏版やら御喜美江と今井信子の二重奏やらチェコの作曲家ノヴァークのバレエ音楽やらを手に取る。
そんなかんなで、忙しくも充実した一日だった。たまにはこんな日もなくちゃ、ね。
それはともかく、ローゼンフェルド女史の講演会は期待できそうですよ。
7月28日(土)午後二時~(一時半開場、定員250名、無料、予約不要)
講師=アラ・ローゼンフェルド(ニューヨーク、サザビーズ・ロシア絵画部門副部長)
演題=「ロシア舞台芸術の世界」*通訳付
会場=東京都庭園美術館 新館大ホール
講演会そのものは無料だけれど、まあ、入場料を払って展覧会を観てから拝聴するのがよろしかろう。小生も勿論そうします。