出来上がった原稿は昨日の早朝(というか真夜中ですね)、大急ぎで編集部へ送った。そのあと、体はへとへとなのに、頭は冴え冴えという妙な状態で眠れず、イヤーフォンでCDを何枚もかける。耳が異様にくっきり聴こえ、演奏の良し悪しが明瞭にわかる(ような気がした)。
そんなわけで昨日は終始へとへと状態。
それなのに、帰路わざわざ吉祥寺に立ち寄ってディスクユニオンでCDハンティング。病膏肓とはこのことだ。収穫は藤川真弓+ベルィルンド+日フィルのモーツァルト、カラヤン+フィルハーモニアのブリテン、RVWほか、カラヤン+ウィーン・フィルの「トロヴァトーレ」ステレオ実況、遠山慶子のドビュッシーなど。
帰りの車中では正体なく泥のように眠りこけ、駅を三つも乗り過ごしてしまう。やれやれ。
家に着いたら編集部からのメールで、原稿はあれでよろしい、とのこと。ほっと胸を撫で下ろす。改めて読みかえしたら、まあ、悪くないかも。
さて一夜明けて、今日はさすがにもう眠くない。それではと、図書館から借り出した一冊を読む。
渡辺裕 『日本文化 モダン・ラプソディ』 春秋社、2002
すでに『聴衆の誕生』『文化史のなかのマーラー』『宝塚家劇の変容と日本近代』など、手堅い調査と鮮やかな時代把握で知られる著者の、比較的新しい近代音楽文化論。なぜかこれまで見落として読まずにいた。
…とここまで書いたあと、一気に通読したのだが、残念ながらこれはいささか不満足な出来の本であると判明。
坪内逍遙の『新楽劇論』(1904)から宝塚歌劇のベルリン興行(1938)までを辿り、日本音楽の近代が「伝統の保存」でも「西欧化」でもなく、今日の眼にはいささか奇妙に映る「和洋折衷」の道を歩んだことを肯定的に捉えようとする。
盛んに行われた尺八の「近代化」をはじめ、大倉喜七郎の「オークラウロ」、宮城道雄の「十七絃」「短琴」、杵屋佐吉の「セロ三味線」といった新奇な「改良」和楽器の登場。洋楽器やダンスを積極的に学ぶモダン芸妓たち。1915年に大阪で誕生した「羽衣管弦団」。坪内士行の宝塚少女歌劇の試み。そしてとりわけ、「新しもの好き」の日本舞踊家元、楳茂都陸平の宝塚での大胆な振付…。
取り上げる事象はそれぞれに面白いのだが、著者の追求はいささか手ぬるく、それらを統合すべきテーゼ、すなわち「日本音楽の近代化ではむしろこれらの奇矯な試みのほうが本流」は、額面どおりは承服できかねる。事態を単純化し、結論を急ぎ過ぎてはいないか。
「表象」とか「温度差」とか「内面化」とか、厭味で浅薄な語彙が頻出するのも感心しない。
というわけで、これは図書館で借りて一読すればそれで充分な一冊。もっと時間をかけて、丹念に詳細に調べ上げて書かねば勿体無いのではないか。