(承前)
1859年、四十歳になった詩人(「ぼく」)は少年時代に思いを馳せ、ずっと長く心に秘めてきた大切な思い出を語り始める。
かつてポーマノックで
リラの香りがたちこめ、皐月(さつき)の草が生い茂るころ、
イバラの生えるこの岸辺に
アラバマから翼のある二羽の客人が来た、それも二羽そろって、
そして巣と、茶色の斑点のある薄緑の卵を四つも持って、
そして毎日、雄鳥は近くで立ち働く、
そして毎日、雌鳥は巣をあたためる、目を輝かせ黙々と、
そして毎日、じっとしていられぬ少年のぼくは、近づきすぎては邪魔かと、
そっと見入り、心にきざみ、意味をはかった。
すると雄鳥が声を限りと歌い出す。
輝け! 輝け! 輝け!
おまえの温みをふりそそげ、偉大なる太陽!
陽をあびながら、われらふたりは一緒。
ふたりは一緒!
風が南へ吹こうが、風が北へ吹こうが、
昼が白々と訪れようが、夜が黒々と訪れようが、
家にいようが、家を離れて川や山に行こうが、
時間いっぱい歌い、時間を気にしない、
ふたりが一緒にいる間は。
ところがある日のこと、つがいの雌鳥のほうが不意に姿をみせなくなる。どうしたのだろう、傷ついたのか、迷ったのか、それとも…。次の日も、その次の日も、雌鳥は巣に戻らない。
残された雄鳥はあちこち飛び回って懸命に捜し続ける。つれあいを呼び戻そうと悲痛な鳴き声をあげる。
吹け! 吹け! 吹け!
ポーマノックの岸辺に海風よ吹け──
ぼくは待つ、ぼくは待つ、おまえが連れを運んでくるまで。
胸をかきむしるようなこの必死の叫びを聴いたのは、地上ではしかしこの少年ただひとりだった。ひとけのない海辺で、雄鳥の寄るべなき運命に心痛める者など、ほかには誰一人いない。
そいつは連れの名を呼んだ、
そいつは声を発した、その意味は世界中でもぼくにしかわからなかった。
そうだわが兄弟の鳥よ、ぼくにはわかる、
おそらくぼくだけだろう、すべての音に慈しんだ、
一度ならず海岸までこっそり音も立てずにやってきて
ものも言わず、月影をさけ、影に溶け入るようにして、
ぼやけた姿を、谺(こだま)を、音と光景をなんとなく思い出していた、
大波の白い腕が休みなくたたきつけるなか
ぼくは、裸足の子供、風に髪をもてあそばれながら、
じっと聴いていた、いつまでもいつまでも。
このあとは雄鳥の長い長いモノローグ、うちひしがれた歌が延々と続く。調子は哀訴から悲嘆へ、そして絶望へと、次第に響きを変えていく。その最後のクライマックスを引こう。
おお 闇よ! おお むなしい!
おお ぼくはもう悲しくていやになった。
おお 空では月の光環も色あせ、海に沈みかけ!
おお 苦しげに海に映って!
おお 喉よ! おお どくどくと打つ心臓よ!
そして、ぼくはむなしく、むなしく夜どおし歌う。
おお 過去よ! おお 幸福な生活よ! おお 歓喜の歌よ!
空を飛ぶときも、森で遊ぶときも、野をわたるときも、
愛した! 愛した! 愛した! 愛した! 愛した!
でもぼくの連れはもういない、もうぼくのもとにはいない!
ぼくらはもう一緒じゃない……
このあと詩句はもう少し続くのだが、引用はもうよそう。まるごと引かずにはいられなくなるからだ。
さて小生がこの絶唱ともいうべき詩篇と出遭ったのは、活字を通してではない。耳から、しかも音楽を伴った形で初めて触れたのだ。
その曲の名は "Sea Drift" という。しばしば「海流」と訳される、このバリトン独唱と合唱と管弦楽のための音楽を創ったのはフレデリック・ディーリアス。パリ郊外に住んだ英国の作曲家である。"Sea Drift" とはこの詩を含むホイットマンの連作詩篇の総称で、岩波文庫の『草の葉』全訳版では古風にも「藻塩草(もしおぐさ)」とされていたが、今回の飯野友幸の新訳ではすっきり「海の彷徨」と訳された。
次回はこのディーリアス渾身の傑作「海の彷徨」の話をしよう。
(明後日につづく)