(承前)
メンゲルベルク亡きあと、アムステルダムのコンセルトヘバウ管弦楽団を率いてきた指揮者エドゥアルト・ファン・ベイヌムの急逝は、このオランダ随一の楽団にとって取り返しのつかぬ痛恨事だった。後任の人選は大いに難航したとおぼしい。事実、ベイヌムが歿した1959年から丸二年もの間、常任指揮者のポストは不在のままだったのである。
すでにデン・ハークのオーケストラで充実した十年を過ごし、五十代半ばに差し掛かっていたウィレム・ファン・オッテルローは、オランダきっての辣腕指揮者との自負から、次代のコンセルトヘバウ常任は自分になるはずだと密かに確信していたらしい。
ところが1961年、コンセルトヘバウは次期常任指揮者として、国際的には全く無名のベルナルト・ハイティンクを指名したのである。
このときハイティンクは弱冠三十二歳、指揮者としてはほんの駈け出しにすぎない。誰しも予想しない異例の大抜擢。しかも、まだ若く経験の乏しい彼を支える「後見役」として、ドイツの長老オイゲン・ヨッフムをしばらく「共同首席指揮者」に据えるという臨時処置つき。
事の成り行きにオッテルローが内心、怒り心頭に発し、大いにプライドを傷つけられたろうことは想像に難くない。
これはあくまでも噂であるが、それまでコンセルトヘバウに客演するたびに、オッテルローはこの名門オーケストラに常に高い演奏水準を要求し、しばしば面と向かって辛辣に欠点を指摘したという。そんなことが度重なって、楽団員は彼を敬して遠ざけるようになったらしい。
かてて加えて、ハイティンクが就任した翌年の1962年、オッテルローの手兵たるレジデンティ管弦楽団のコンサートマスターを務めてきた名ヴァイオリニスト、ヘルマン・クレッバースがコンセルトヘバウに移籍する(つまり「引き抜き」である)という由々しい事態が起こる。
さらにレコード録音のうえでも大きな変化が兆していた。1957年以降、フィリップス社はステレオ録音を開始しているが、なぜかオッテルロー&レジデンティ管弦楽団の録音セッションは目に見えて数を減じていった。
1960年以降になると契約も打ち切られ、その後はドイツ・グラモフォンとコンサート・ホール・ソサエティに散発的なステレオ録音が残されるのみ。1950年代にフィリップスが蓄えた膨大な音源も、モノラル録音ゆえに過去の遺物として等閑視され、次第にカタログから消え去る運命にあった。かつてあれほど喧伝されたオッテルロー&レジデンティの名も、レコード愛好家の記憶から急速に遠のいていった。
こうした不運な出来事の連鎖のなか、オッテルローのオランダ楽壇に対する不信と落胆は次第に拭いがたいものとなった。
オッテルローが新たなる活動の拠点を求めて、客演指揮者として世界各地に姿を現すようになるのは1960年代中頃、まさにこの時期なのである。
(次項につづく)