(承前)
ウィレム・ファン・オッテルロー Willem van Otterloo は1907年、オランダのウィンテルスウェイクに生まれた。同世代の指揮者には、二歳上にアンドレ・クリュイタンス(ベルギー)、一歳上にアンタル・ドラーティ(ハンガリー)、一歳下にヨーゼフ・カイルベルト(ドイツ)がいる。彼らはいずれも1930年代に指揮活動を開始するも三十代で第二次大戦に遭遇し、本格的なキャリアの開始は概ね戦後になってからである点で共通する。
この世代にはもうひとつ、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908生まれ)という途方もないカリスマ指揮者と常に比較されざるを得ない「宿命」が付き纏った。上に挙げた指揮者たちはいずれも際立った音楽性の持ち主だったのだが、眩い光を放つ「超新星」の傍らでいささか地味な存在に貶められていたことは否めない。
初めユトレヒトで医学を修めたが、ほどなく作曲に転じたオッテルローはアムステルダム音楽院に学び、コンセルトヘバウ管弦楽団の作曲コンクールで優勝する。指揮者としてのデビュー(1932)も自作を振った演奏会だったというから、ポール・パレーやイーゴリ・マルケヴィッチと同様、「二足の草鞋を履いた」存在だったわけだ。1937年からはユトレヒト市立管弦楽団の首席指揮者を務め、第二次大戦後はネーデルラント・オペラ、放送局のオーケストラの指揮者を経て、1949年デン・ハーク(ハーグ)のレジデンティ管弦楽団 Residentie Orkest の首席指揮者に就任。その後は弱体だったこのオーケストラをアムステルダム・コンセルトヘバウ管弦楽団に次ぐオランダ第二の楽団に育て上げた。
1950年からはフィリップス社と契約し、手兵を率いて旺盛なレコーディング活動を開始する。それから十年ほどの間に、バロックから現代音楽に到る夥しいLP録音を行い、オッテルローとそのオーケストラ(英語圏では専らザ・ヘイグ・フィルハーモニック The Hague Philharmonic Orchestra の名称で知られた)の声価は世界的に喧伝された。
オッテルローのレパートリーは驚くほど広範囲に及んでいた。この時期にディスクに刻まれた楽曲が彼のヴァーサタイル(=なんでもござれ)な才能をよく物語っている。手許のLPから主なものを拾うと…
バッハ: 二つのヴァイオリンのための協奏曲(独奏:クレッバース、オロフ)
ヘンデル: 組曲「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」
ハイドン: 交響曲 第92番
モーツァルト: 交響曲 第36、38番(*ウィーン交響楽団)
ベートーヴェン: 交響曲 第4、6、8、9番、「プロメテウスの創造物」
シューベルト: 交響曲 第5、8番、「ロザムンデ」より
シューマン: 「マンフレッド」序曲、ピアノ協奏曲(独奏:ハスキル)
ブラームス:交響曲 第1番、ハイドン変奏曲、悲劇的序曲、大学祝典序曲
リスト: 「レ・プレリュード」
ワーグナー: 「ジークフリート牧歌」(*ベルリン・フィル)
ブルックナー: 交響曲 第4、7番、序曲 ト短調(*第7はウィーン交響楽団)
マーラー: 交響曲 第4番(独唱:スティッチ=ランドール)
、歌曲集「子供の死の歌」(独唱:スヘイ)
ドヴォルザーク: チェロ協奏曲(独奏:マヒュラ)
チャイコフスキー: 交響曲 第4番、組曲「眠れる森の美女」(*ウィーン交響楽団)
グリーグ: 組曲「ペール・ギュント」(独唱:スポーレンベルィ)
ベルリオーズ: 幻想交響曲(*ベルリン・フィル)
、序曲集(*ラムルー管弦楽団)
フランク: 交響曲、交響詩「プシュケ」
サン=サーンス: 交響曲 第3番
ラヴェル: 組曲「ダフニスとクロエ」第1、2番、高雅で感傷的なワルツ、亡き王女へのパヴァーヌ
ムソルグスキー(ラヴェル編曲): 組曲「展覧会の絵」
プロコフィエフ: ピアノ協奏曲 第3番(独奏:ウニンスキー)
モートン・グールド: 「インタープレイ」、「スピリチュアルズ」
このほか若干のオランダ現代音楽があるほか、加えて古今の協奏曲の伴奏はそれこそ枚挙に暇がない。
小生の聴いた範囲で、オッテルローのディスクに駄作は一枚もない。
モノラル期の隠れた名盤とされる「田園」や「幻想」、さらにはフランクの交響曲や「プシュケ」を試しに聴いてご覧になるといい。それらは強烈な個性には欠けるものの、繰り返し味わうに足る円熟と妙味を備えた「燻し銀の音楽」なのである。
独墺の古典の構築性にも、フランス近代の瀟洒な感覚にも、等しく親和性を示し、ロシアや東欧の民族主義も柔軟にこなす。伴奏指揮にも巧みな手腕を発揮する。こうしたオッテルローの包容力は、一歳年下のカラヤンにも通ずる資質かもしれない。もちろん彼にはカラヤンの派手なスター性は求むべくもなかったが。
少なくともレコード録音からみる限り、1950年代から60年代初頭までのオッテルローは間違いなくオランダで一、二を争う多忙な指揮者であった。その知名度もこの十数年で一気に国際的になった。まずは順風満帆の指揮者人生といえるだろう。
1959年、オッテルローのオランダにおける最大の好敵手で、アムステルダムのコンセルトヘバウ管弦楽団の常任指揮者エドゥアルト・ファン・ベイヌムが六十歳を待たずに急逝した。
このライヴァルの突然の死が契機となって、オッテルローのその後のキャリアはにわかに失速し、思いもよらぬ方向へと転ずることになる。
(明日につづく)