首都圏に住んでいると、ついつい怠慢になる。東京であらゆる音楽、あらゆる映画、あらゆる芝居、あらゆる書籍にいとも容易にアクセスできるからだ。
展覧会についても事情は同じだと、ともすれば過信してしまいがちだが、実状はさにあらず。心ある地方美術館が独自の企画で、ユニークな高水準の展覧会を創り上げている。2002年に栃木県立美術館が単独で開催した「ダンス! 20世紀初頭の美術と舞踊」展がそうだったし、つい先だって川口で観た「二人のクローデル」展がそうだった。珠玉の展覧会はむしろ地方でこそ生まれるのだ、と言ってみたくなる。
先日、上野の東京藝術大学大学美術館で失望させられたことは記したが、実はそのあと階段で地下一階まで降りて、売店に立ち寄って各地の美術館の展覧会カタログを物色した。このまま帰るのは癪だったからだ。そこの書棚で驚くべき一冊を発見した。
『再考・萬鉄五郎』 萬鉄五郎記念美術館、2006
これは岩手県花巻市の萬鉄五郎美術館で2006年4月29日から7月9日まで催された展覧会のカタログである。暗褐色一色で刷られた表紙には、雑然と散らかった畳敷きの部屋に仰向けに寝転んだ男が、暗がりのなかでこちらを見ている写真が大胆にレイアウトされている(
→小さい画像ですが…)。全体はきわめて暗く、男の表情も部屋の細部も定かではない。この男性はいったい誰か。ひょっとしてこれは…。
驚いたことに、被写体の男は画家・萬鉄五郎(よろず・てつごろう/1885-1927)その人であった。
ごく最近になって、萬自らが撮影したと推定されるガラス乾板三十数枚が遺族の許から忽然と出現とした。そのなかに、この不可思議な「自写像」が含まれていたのである。撮影年度は1911(明治44)年頃、というから萬は25、6歳、写された場所は東京・小石川の自宅二階の画室と推察される。
これこそ一見に如くはないのだが、なんとも壮絶無比な写真なのだ。乱雑に散らかった和室で自堕落に四肢を投げ出す萬。疲れ切っているようにも、酩酊しているようにもみえる。覗いてはいけない秘密を垣間見たような、なんだかゾクゾクする写真だ。シャッターを切ったのはひょっとして萬の妻かもしれないという。
その妻を被写体とした二枚の写真も劣らず衝撃的。暑い夏の昼下がり、午睡をむさぼっているのか、庭に面した一室でごろりと横たわる姿が逆光で捉えられる。彼女の胸ははだけ、その寝顔は全き安堵感にくつろいでいる。なんと美しく健康でエロティックな姿であろう。
画家である萬が自分と妻をこのような「あられもない」姿で記録したのはなぜか。これは日常の記録なのか、それとも作為に基づく「つくられた」肖像なのか。
この「再考・萬鉄五郎」展はこれら新発見の写真群と、未公開の水彩・素描によって、私たちがこれまで知ることのなかった、秘められた萬の感情と思考を探ろうとする企てである。ああ、観たかったなあ、花巻まで足を運ぶべきであった。
カタログ所収の水沢勉氏の論考がいつもながら水際立った出来映え。これらの写真が示唆するところを、余すところなく語り尽くし、同時代のドイツのキルヒナーとの思いがけない相似性を指摘する。
隅々まで神経の行き届いたカタログ編集にも感銘を受けた。そこにはこの地方美術館のスタッフの並々ならぬ愛情と使命感が脈打っている。ルーティンに堕しがちな大都会の美術展のあり方に猛省を迫る、素晴らしく充実した仕事である。