期待して読み始めた塩浦彰『荷風と静枝 明治大逆事件の陰画』(洋々社、2007)は、多くの資料を博捜した力作ではあるのだが、最後はいささか期待外れ、というか、竜頭蛇尾の感が強い。
永井荷風と藤間静枝(のちに藤蔭静枝、藤蔭静樹と改名)とが大正初年にほんの短期間だが夫婦だったことは承知していたが、両者の出逢いと別れの経緯はこの本を読んで初めて知った。その意味ではこれは裨益するところが大きい有用な書物なのだが、副題にある「大逆事件」との関係が今ひとつ浮かび上がってこない恨みが残った。
周知のごとく、国家権力の発動たる大逆事件に際し、自分を含めた日本の文学者が全く無力であったことに慨嘆して、荷風は自らの身の処し方を「江戸の戯作者並に引き下げる」決意をした、とされる(自らそう宣言している)。ちょうどその時期、荷風は(売れっ子の芸者だった)藤間静枝と恋愛関係にあり、両者の間ではどうやら反国家・反時代的な「なにものか」が共有されていた…という本書の視点はいたく刺激的なのだが、この主題はなぜか深められぬまま、宙吊りにされて終わる。なんとも残念なことだ。
藤間静枝は荷風と別れたのち、藤間流と訣別し、自らの団体「藤蔭会」を結成して日本舞踊の改革に邁進する。
彼女のその後の歩みは数々の前衛的な試みに彩られ、優に一冊の書物たりうるのだが、まだ決定的な伝記や研究書は現れてはいない。
考えてみたら、週一回のペースで日本舞踊の稽古に通う家人もまた、静枝の曾孫弟子にあたるわけで、いずれ小生も機会をみて、彼女と近代舞踊の関係を探ってみたいと思う。