(承前)
1948年の春から初秋にかけてリヒャルト・シュトラウスはソプラノと管弦楽のための歌曲をたて続けに四曲仕上げた。もう一度ここで時系列で整理してみよう。月日と地名は完成した日と場所を示す。
*夕映えに Im Abendrot/アイヒェンドルフ詩/5月6日モントルー
*春 Frühling/ヘッセ詩/7月18日ポンテレジーナ
*眠りにつこうとして Beim Schlafengehen/へッセ詩/8月4日ポンテレジーナ
*九月 September/へッセ詩/9月20日モントルー
さてここからが問題である。
シュトラウスは果たしてこの四曲を連作歌曲としてひとつにまとめようと思っていたのだろうか。それともこれらはあくまでも独立した作品なのだろうか。ちなみに譜面にはそれぞれ異なった献呈先の人名が明記されており、それぞれの歌が独立した存在であることを示唆しているかにみえる。仮に作曲者がこれらを一連のサイクルと考えていたとして、それはこの四曲で完結していたのだろうか、それともあと何曲か書き足して、五曲乃至七曲で歌曲集としようと考えていたのか。
あるいは最初の「夕映えに」だけが独立した作品で、残りはそれとは別個に『へッセ歌曲集』として構想されたという可能性だって捨てきれない。
結局のところシュトラウスの生前にこれらの曲は一度も演奏されず、楽譜出版にも到らなかった。彼はこの四曲を文字どおりの「遺作」として後世の手に委ねたのだ。
この四曲を仕上げた翌年の49年3月、シュトラウスは占領軍当局から帰国を許され、晴れてガルミッシュの山荘に戻ることができた。その後6月には85歳の誕生日を盛大に祝い、ミュンヘンで自作の指揮までしたが、やがて健康を害し、9月8日、就眠中に安らかに大往生を遂げた。
机の上にはヘッセの詩に作曲しかけた五曲目の歌曲が数小節書いたまま遺されていた、とも伝えられる。
すでに述べたように、作曲者の歿後、遺された四曲を歌曲集にまとめ上げ、出版まで漕ぎつけたのは、シュトラウスの旧友でロンドンの楽譜出版社ブージー&ホークスの総支配人エルンスト・ロート Ernst Roth の功績である。
したがって、この四曲をひとつに束ね、現行のように曲の順番を定めて『四つの最後の歌 Vier letzte Lieder / Four Last Songs』と命名したのも、すべてロートの意向に沿ったものと推察されよう。ちなみに「夕映えに」の自筆譜には、その献呈先としてロートの名が記されている。
ロートが楽譜刊行に際して配列した曲順はシュトラウスの作曲順とはまるで異なっていた。
1. 春 Frühling
2. 九月 September
3. 眠りにつこうとして Beim Schlafengehen
4. 夕映えに Im Abendrot
最初に作曲された「夕映えに」をあえて最後にもってきたのは、死を瞑想する歌詞内容からしてまあ当然の処置であろう。あとの三曲については作曲の時系列をあえて無視し、むしろそれぞれの詩篇の時間的推移、すなわち春から秋へ、一日の終わりの時間、そして「人生の黄昏」たる晩年へ、という無理のない流れを心がけたものと考えられる。
それから半世紀以上が経つが、実演でもレコード録音でも、この曲順はほぼ例外なしに遵守されてきた。
ところが、である。
楽譜刊行に先だって1950年5月22日にロンドンで行われた世界初演では、これとは別の曲順が採用されているのだ。すなわち、
3. 眠りにつこうとして Beim Schlafengehen
2. 九月 September
1. 春 Frühling
4. 夕映えに Im Abendrot
「夕映えに」を最後にもってきた点を除くと、ロートの考えた刊行譜の曲順とまるきり異なる。しかも作曲順に従った配列でもない。開巻一番「眠りにつこうとして」で聴き手をいきなり深々とした瞑想の世界に拉し去るわけで、歌曲集全体の印象がまるで違ってくる。
これはいったいどういうことなのか。
(18日に続く)