(承前)
リヒャルト・シュトラウスはドイツ敗戦をバイエルンのガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘で迎えた。ドイツ楽壇の最長老として、また政権初期には帝国音楽院総裁として、ナチスの文化戦略の一翼を担ってきた彼の心中はいかばかりであったろう。
シュトラウスの息子フランツの妻はユダヤ女性であり、ホフマンスタール亡きあと彼がオペラ台本の作者として全幅の信頼をおいていたシュテファン・ツヴァイクもまたユダヤ人であった関係で、彼はしばしばナチス当局の人種政策と対立し、水面下で厄介な確執を繰り広げていた。当代随一の作曲家であるとともに「好ましからざる要注意人物」でもあるという複雑な立場を余儀なくされながら、ファナティックな体制下で十二年間を生きたのである。
ドレスデン、ベルリン、ミュンヘン…。彼がこよなく愛したドイツ諸都市は空襲で廃墟と化し、主たる活躍の場であった歌劇場も、1945年に入るとフランクフルト、ベルリン、ドレスデン、ウィーンとつぎつぎに破壊されてしまった。祖国の瓦解を悟った彼の心境は、葬送行進曲で締め括られる悲痛な弦楽合奏曲「変容(メタモルフォーゼン)」に率直な形で吐露されている。
終戦から五か月を経た1945年10月、シュトラウス夫妻は戦後の社会的混乱を避け、戦争責任を糾弾する声から逃れてスイスへと出国、チューリヒ郊外バーデンのホテルに落ち着き、そこで束の間の安息を見出す。
81歳の老巨匠にはまだ作曲を続ける意欲が残っていた。
彼の筆からはなおも作品が紡ぎ出される。オーボエ協奏曲、16管楽器のためのソナティネ、クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲…。魅力的な旋律と甘やかな気分に満ちたロココ的な小世界。たしかに美しい作品群ではあるのだが、さすがに往年の音楽の張りや生命の横溢は求めるべくもない。ここに居るのはシュトラウスの影にすぎないのだ、といいたくなる。
1948年、ひとつの奇蹟が起こる。シュトラウスは二十年ぶりに歌曲の作曲に取りかかったのだ。前年の暮れにアイヒェンドルフの詩「夕映えに Im Abendrot」を読んで、いたく感興をそそられたのが直接の契機となった。
(つづく)