展覧会「舞台芸術の世界~ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン」は4月17日、北海道立釧路芸術館で始まったばかりである。東京巡回はこの夏なので展覧会そのものは無論まだ目にしていないが、幸い北海道の友人 Boulez さんが小生のバレエ・リュス好きを知ってカタログをお送り下さった。お蔭でこの興味深い展覧会の全容をほぼ掴むことができた。
展覧会タイトルだけみると、1998年に池袋のセゾン美術館(と巡回先の滋賀県立近代美術館)で開催された、かの忘れがたい「ディアギレフのバレエ・リュス展」と同工異曲の内容かと早合点される方も多かろう。あのときの展覧会は1909年から29年まで存続したセルゲイ・ディアギレフ主宰の「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」の活動に焦点をあて、数多くの衣裳、デザイン画、写真、公演プログラムなどからその全貌に迫ろうとする画期的な企てであった。
今度の展覧会ももちろんディアギレフのバレエ・リュスを取り上げているのだが、その比重はさほど大きくない。むしろ「ディアギレフばかりがロシア・バレエじゃないぞ」とばかりに、同時期に活動した他のカンパニー、例えば「バレエ・リュス・ヴェーラ・ネムチノーワ」、ロシア=ドイツ劇場 Russisch-Deutscher Theater、ニキータ・バリーエフ主宰の「蝙蝠座 La Chauve-souris」などの舞台デザインにも光をあて、さらにはシャンゼリゼ劇場やメトロポリタン歌劇場での公演用にロシア人が手掛けた美術にも目を向けている。
さらには、同時期にロシア国内で展開された舞台美術にも相応の目配りがなされる。例えば、サンクト・ペテルブルグ国立演劇音楽博物館から出品された「ペトルーシュカ」の舞台衣裳は、ロシア革命後の1920年マリインスキー劇場での上演に用いられたものだという。アヴァンギャルド系の舞台美術では、アレクサンドラ・エクステルの構成主義風の舞台デザイン、アジプロ劇の「青シャツ隊」用の衣裳デザイン、さらにはマレーヴィチの愛弟子ラーザリ・ヒデケリが未来派オペラ「太陽の征服」上演用に描いたスケッチまで紹介される。
周知のとおり、1917年にピカソを起用して以降、ディアギレフはもっぱらロシア人以外の美術家を重用したため、ロシア革命を逃れて西欧に亡命したいわゆる「白系ロシア」画家たちはほとんどディアギレフと無縁だった。今回の展覧会ではビリービン、ドブジンスキー、アンネンコフ、チェホーニン、スデイキンといった「傍流」の面々にも正当な位置が与えられる(ちなみに、彼らの何人かは、わが「幻のロシア絵本 1920-30年代」展の登場人物でもあった)。一方で、ディアギレフに協力した美術家でも、ピカソ、マティス、ドラン、デ・キリコなどの非=ロシア人は本展では対象外として省かれているのは当然であろう。
ほかにも、シャリアピンがマリインスキー劇場で身につけたボリス・ゴドゥノフの衣裳やら、本ブログではお馴染の「流浪のカバレット芸人」ヴェルチンスキーを表紙にあしらった楽譜やら、パリで催された亡命ロシア人の仮装舞踏会の入場券(ラリオーノフやゴンチャローワが素敵な装画を描いている)やら、見どころは枚挙にいとまがない。
残念なのはカタログの不具合だ。アラ・ローゼンフェルド女史の巻頭論文は有益な内容だが、その邦語訳はじゅうぶん推敲されておらず、誤訳も散見されるし、いかにも読み辛い。固有名詞の表記にも疑念が残る(特に註がひどい)。
薄井憲二、三浦雅士、鈴木晶のお三方のエッセイはそれぞれ良いものだが、いかんせん短すぎる。鈴木氏など、さあこれからいよいよ…というところで幕。勿体ない。
最も腹立たしいのは、その鈴木氏の文章のあとに二頁にもわたって四十四もの後註が続くこと。ところが氏の文中には註などひとつもないのだ。ご丁寧なことに、註のあとには邦訳者の名まである。鈴木氏は外国語で執筆されたのだろうか。
冒頭の「ごあいさつ」の頁にも唖然とした。文中で監修者ローゼンフェルド博士への謝意が述べられるのだが、英文ではそこが our deep gratitude to Mr. XXXXX となっている! おそらく誰かが作製した英訳草稿をそのまま入稿・印刷したのだろう。いくらなんでも、これは監修者に失礼ではないか。「ミスター・X」ですよ。
本カタログを制作した印象社の怠慢は目に余る。どんな書籍にも誤植や誤りはつきものだが、本カタログの失態はそのような次元を超えていよう。これは暗闇で編集しない限り起こりそうもない凡ミスなのである。この欠陥商品を「正誤表」一枚入りで買わされる身にもなってほしい。誰だって買わないよ、こんな不良品。食品だったら食中毒が起きますよ。
東京展までにカタログの改訂版が出来上がっていることを祈るのみ。
素晴らしい展覧会が心ない編集者によって踏みにじられたのは残念だが、展覧会そのものは充分に期待がもてる。1998年の「ディアギレフのバレエ・リュス展」、「美術と演劇 ロシア・アヴァンギャルドと舞台芸術 1900-1930」(横浜美術館)、さらには2003年の「ダンス! 20世紀初頭の美術と舞踊」(栃木県立美術館)に続く、画期的な企てであることは間違いない。
舞台芸術の世界~ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン
A World of Stage: Russian Designs for Theater, Opera, and Dance
4月17日~5月27日=北海道立釧路芸術館
6月9日~7月16日=京都国立近代美術館
7月26日~9月17日=東京都庭園美術館
9月29日~10月28日=青森県立美術館