(承前)
それにしても社会主義政権下で、明らかにアメリカ起源のダンス・ミュージックが絶大な人気を博したという事実は、ちょっと理解しがたく感じられよう。だが、それが1920年代のいわゆる「ネップ(新経済政策)」期のソヴィエト文化ならではの鷹揚さなのである。
1930年代以降の自閉し硬直化したソ連文化とは大いに異なり、資本主義国の文化を拒絶するという姿勢はさほど顕著にはみられない。音楽を例にとれば、アルバン・ベルク、アルテュール・オネゲルら先鋭的な作曲家が相次いで訪ソしているし、クレンペラー、ワルター、シェルヘン、アンセルメといった指揮者たちがモスクワやレニングラードのオーケストラの指揮台に立つことも珍しくなかった。全世界的なジャズ(フォックストロット、ブルーズなどのダンス音楽のこと)の流行はソ連の都市部にも及び、黒人レヴューが興行を行い、いくつものジャズ・バンドが結成されたのもこの時代である。
アメリカ文化への接近や憧憬が最も顕著に表れたのは映画界であろう。チャップリンは20年代のソ連民衆にとっても最も親しい銀幕スターだったし、1927年にダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードが私的にモスクワを訪問した(新婚旅行の途中だった)際は、多くの映画人の熱烈な歓迎を受け、彼らが登場する劇映画まで撮られたほどである(「メアリー・ピックフォードの接吻」)。やがてエイゼンシュテインは渡米してハリウッド資本で映画を撮ることになる(未完の「メキシコ万歳」)。
とはいえ、欧米の資本主義文化への追随を咎める声も根強く、音楽界では「ロシア・プロレタリア音楽家連盟(RAPM)」がそうした批判勢力の急先鋒だった。
ショスタコーヴィチもやがて非難の矢面に立たされる。RAPMの機関誌『プロレタリア音楽家』1930年3月号で、彼はついに「私が指揮者マリコに対して、私自身が管弦楽編曲を施した『タヒチ・トロット』の演奏を許可したのは、政治的な誤りだった」と自己批判する。そして、次のような弁明を取り繕う。「これはバレエ『黄金時代』のなかの一曲で、作曲者と素材との関連を示すコンテクストから切り離されると、あたかも私が「軽音楽」のジャンルに執着しているかのような、間違った印象を与えかねない。三か月前、私は海外にいる指揮者マリコに対し、然るべき演奏禁止状を書き送ったところだ」。
ショスタコーヴィチのこの発言は巧妙な言い逃れである。「タヒチ・トロット」はバレエ『黄金時代』のために書かれたのではなく、もともと独立した楽曲だったものを、指揮者ガウクの勧めでそこへ「組み込んだ」ものだったからである。彼はもちろん「二人でお茶を」がかなり気に入っていたはずだが、そのことを認めてしまうと、自らの立場が危くなると感じて、見え透いた虚偽の説明をしたのだ。
彼の嘘は簡単にバレてしまう。亡命先で『プロレタリア音楽家』誌を読んだマリコ自身から編集部に投書があり、自分は当面「タヒチ・トロット」を海外で演奏する予定のないこと、そもそもショスタコーヴィチから「演奏禁止状」なぞ貰っていないこと、自分がかつて国内で行った「タヒチ・トロット」の演奏はすべて作曲家本人の賛同を得ていること、などを暴露したからである。
1930年、前述のようにショスタコーヴィチはバレエ『黄金時代』のなかに(オーケストレーションを若干手直ししたうえで)「タヒチ・トロット」を組み込んだ。同バレエのプロットはソ連のサッカー・チームが試合で西欧の都市を訪れるというもの。社会主義社会と資本主義社会を対比的に描く必要があり、後者の音楽的肖像の一環として、ふたたび「タヒチ・トロット」の出番と相成ったのである。皮肉なことに、ここでも「タヒチ・トロット」は聴衆の喝采を浴び、公演のたびにアンコールされたという。
ほどなくバレエ『黄金時代』自体が当局の禁忌に触れ、そのあと半世紀にわたって上演されなかった。ショスタコーヴィチはそこから抜粋して「タヒチ・トロット」を含む七曲からなるバレエ組曲を編んだのだが、やがて刊行された楽譜ではそれが四曲となって、「タヒチ・トロット」は選から漏れてしまった。ショスタコーヴィチとしては、もう面倒は御免とばかり、この曲を「無かったこと」にしたくなったのかもしれない。事実、その後ショスタコーヴィチの公的な「作品目録」では「タヒチ・トロット 作品16──紛失」と記されるのが常となった。
(明日につづく)