(承前)
1926年にモスクワで刊行されたポドレフスキー&フォミーンの「タイチ・トロット」の表紙には、もうひとつ気になる語句が印刷されている。
вставной номер к оперетте
"Карьера Пирпойнта Блэка"オペレッタ『ブラック波止場の発展 Kar'era Pirpointa Bleka』の間奏曲、とでも訳すべきだろうか。正直なところ、ちょっと自信がない。
作曲家フォミーンの仕事については極度に情報が乏しいのだが、ある資料によれば、彼は確かに1921年にこの題名のオペレッタを作曲している。もちろん、その時点では「タイチ・トロット」が間奏曲として用いられたはずがない。何しろ原曲がまだできていないのだ。
1924年にアメリカで「二人でお茶を」が作詞・作曲され、楽譜が刊行されて、欧米全土で大流行したのを知り、盟友ポドレフスキーの新しい詞を付けてちゃっかり自作オペレッタに挿入したのであろう。ソ連の聴衆はこれがアメリカ伝来の曲とは全く気づかずに、いかにも本場のダンス・ミュージックの香りがする「タイチ・トロット」を愛したと想像される。この楽譜自体は1926年の刊行であるが、実際に同曲がオペレッタに挿入されたのはその少し前、おそらくは25年のことではないだろうか。
モスクワのメイエルホリド劇場でセルゲイ・トレチヤコフの芝居『吼えろ支那』が初演されたのは1926年1月23日のことである。その第二場、中国の港に停泊中のアメリカ砲艦上でのパーティの場面で、この「タヒチ・トロット」が船上バンドによって奏されることになるのだが、本当に初演の日からそのような演出がなされたのかは、実のところよくわからない。
いずれにせよ、メイエルホリド一座の音楽監督レフ・アルンシュタム Lev Arnshtam は、この場面にふさわしい欧米のフォックストロットを物色した際、たまたま「二人でお茶を」の楽譜かレコードを入手したか、上演中のフォミーンのオペレッタで「タイチ・トロット」を耳にしたかして、このダンサブルな曲を『吼えろ支那』に挿入することを考えついた、と推察されるのである。
オペレッタ『ブラック波止場の発展』の間奏曲として、さらには芝居『吼えろ支那』のダンスシーンで用いられることで、「二人でお茶を」の洗練されたメロディはたちまちモスクワっ子の間に浸透したとおぼしい。ホテルやダンスホールのジャズ・バンド(そういうものが存在した)は競ってこの曲を演奏したはずである。そうした絶大な人気に乗じる形で、先のポドレフスキー&フォミーンの「タイチ・トロット」の楽譜が発売されるに到ったのであろう。
(次回につづく)