「ひこうき雲」のシンガー=ソングライター荒井由実は、それまでの日本にまるで前例のない、独創的な世界を創り上げた。
といっても、未踏の領域を切り拓く気負いやエキセントリックなふるまいは皆無だ。平明な歌詞と繊細なメロディを無理なく結びつけて、自らが育んできた心象風景を淡々と、あるがままに描き出しただけなのである。
リアルな現実との接触をもたず、憧れと夢に満たされた脆い存在である「少女時代」を、一点の曇りもなく、鏡のように明晰に映し出す。おそらく誰もが体験し通過しながら、容易に言葉や形象を与えられなかった純粋無垢な心のありようを、実にさらりと、さりげなく易々と、私たちの眼前に開示してみせたのである。
このアルバムは彼女が15歳頃から書き溜めてきた自作を、なんのたくらみもなく無作為に並べただけにみえる。だが、全体としての印象はことのほか鮮烈だ。どんなに巧妙に仕組まれたトータル・アルバムも及ばぬほどに、「そこにひとりの少女がいる」という明確な映像を聴き手の心のスクリーンに等身大で投影してみせる。後年、かなり長いことユーミン自身が「ひこうき雲」のことを「生々しすぎて、好きではない」と否定的に語りがちだったのも、むべなるかな。
林美雄はかつて番組のなかで、「ひこうき雲」収録の「曇り空」の一節を引き合いに出して、ユーミンの独創性を語ろうとしたことがある。
二階の窓を開け放したら
霧が部屋まで流れてきそう
この「流れてきそう」がユニークだ、というのである。
凡百の書き手だったら「流れてきた」と叙景するところを、「流れてきそう」と書く。そうすることで、すべては可能性を孕んだ表現となり、歌われている場面全体が、彼女の心のなかだけに映じた、現実ならざる情景になるのだ、というのが林さんの言い分だったと記憶する。
たしかに、この「曇り空」という歌のなかで、語り手の少女は何ひとつ行動していない。「二階の窓を開け放し」たまま、「やさしい雨が降ってくるのを ずっとぼんやり待ってい」るばかりなのだ。
きのうは曇り空
きっとそのせいかしら
きのうは曇り空
外に出たくなかったの
そういえば、「ひこうき雲」所収の他の曲でも、「~した」「~している」という行為の動詞が意識的に避けられ、「~したい」「~しそう」「~できたらいい」という、願望や予感、期待を伴った言い回しばかりが多用されている。
南に向かう船のデッキで
波を見つめて
もしも夕陽がきれいだったら
話しかけるわ
あなたが好き きっと言える
どんな場所で出会ったとしても 「きっと言える」
誰かやさしくわたしの
肩を抱いてくれたら
どこまでも遠いところへ
歩いてゆけそう 「雨の街を」
この手紙が届くころには
ここにいないかもしれない
ひとところにじっとしてると
よけいなことも心配で
会いたくなるから 「返事はいらない」
すべては部屋のなかで物思いにふける少女の内なる出来事、現実世界での行為や具体的なはたらきかけを伴わぬ、「未然形のラヴソング」だったのである。