生前のガーシュウィンとも親交があり、その早すぎる死を惜しんだヤッシャ・ハイフェッツは1944年、彼の最大傑作「ポーギーとベス」の名場面をヴァイオリンとピアノ用に編曲した。"Summertime" "A Woman Is a Sometime Thing" "My Man's Gone Now" "It Ain't Necessarily So" "Tempo di Blues(There's a Boat That's Leavin' Soon for New York)" "Bess, You Is My Woman Now" の六曲だ。そして、翌45年11月28日、やはりガーシュウィンのピアノ曲から編曲した「三つの前奏曲」とともに初録音を行った。
昨日、久しぶりにこれらを聴いた。胸のすくような、そして心に染み入るような音楽だ。同じユダヤ系ロシア人(ハイフェッツはロシア生まれ、ガーシュウィンの両親はロシアからの移民で「ゲルショーヴィツ」という姓だった)という共感もあるのだろう、クールな佇まいのそこここに、絶唱と呼びたくなるようなパッションがほの見える。
たまたま先日、すこし前に文庫になったトルーマン・カポーティの『詩神の声聞こゆ』(小田島雄志訳、ハヤカワepi文庫、2006)を買ったのを思い出し、この「ノンフィクション・ノヴェル」を十数年ぶりに読み返す。
もう読まれた方も多かろうが、これは若きカポーティが1955年暮、ヨーロッパ巡業中の「ポーギーとベス」ツアーに加わって、ベルリンから陸路レニングラードまで同行し、このオペラのソ連初演を見届けるまでを綴ったルポルタージュである。題名の「詩神の声聞こゆ The Muses Are Heard」とは、ソ連文化省の担当官が「皆さんの来訪は平和への行進の第一歩です。砲声ひびくとき詩神の声とだえ、砲声絶えるとき詩神の声聞こゆ、です」と語ったスピーチに基づく。
東西対立の冷戦下、赤狩りの余韻がまだ続いているなかでの訪ソとあって、ツアーの一行の緊張ぶりが痛いほど伝わってくる。そもそもカポーティ自身が、リラックスしているふうを装いながら、内心わなわな震えているのが行間から伝わってくる。随所に鋭い観察眼も光るが、それ以上に、ソ連社会へのこわばった偏見が隠れもない。
再読して、心臓が止まるかと思う箇所にぶちあたった。アストリア・ホテルで行われたクリスマス・パーティの件りである。会場となった「ナイトクラブ」にはレニングラードのエリートたちが三々五々集っていた。海外放送でジャズを傍受しては古いレントゲン乾板に録音しているというマニア。ベルリンでマルレーネ・ディートリヒに会ったのを自慢する彫刻家。問題の一節はそのあとだ。
そのテーブルにはほかに夫婦がいた。[…]淡いブルネットとモンゴル人のような頬骨と緑がかったアーモンド色の目をした夫人が私に言った、[…]彼女はもっともらしい上品さをもって、『マイ・フェア・レディ』のイライザ・ドゥーリトルのような緊張した正確さをもって、英語をしゃべった。「私はマダム・ネルヴィツキーです。もちろん主人のことはご存じですわね。流行歌手です」彼女は私をその紳士に紹介した、彼女の二倍の年、おそらく六十代であり、見栄を張った、かつてはハンサムであった、いまは腹が突き出て顎の線の衰えた男であった。彼はメークアップをしていた──お白粉と、眉墨と、かすかな頬紅とで。彼は英語は知らなかったが、フランス語で私に言った、「私ハ、ネルヴィツキーデス。ソ連ノビング・クロスビーデス」彼の妻は私が彼のことを聞いていないと知って驚いた。「ご存じない? ネルヴィツキーを? 有名な流行歌手を?」
もうお分かりだろう。ここで「ネルヴィツキー」と呼ばれているのはアレクサンドル・ヴェルチンスキー(1889-1957)に違いない。当ブログの熱心な読者の方なら、メリー・ホプキンの「悲しき天使」の元歌「長い道」の創唱者にして放浪の旅芸人だったヴェルチンスキーのことを記憶しておられるだろう(
1月21日の記事参照)。ネルヴィツキー Nervitsky がヴェルチンスキー Vertinsky のアナグラムであることは言うまでもない。引用をもう少し続けよう。
彼女が驚いたのももっともであった。ソ連においては、ネルヴィツキーはかなりの有名人であり、若い娘たちのアイドルであり、彼女たちは彼の解釈によるポピュラー・バラードを聞くと失神する騒ぎであった。一九二〇年代と三十年代を彼はパリですごし、キャバレー・アーチストとしてささやかな人気を得ていた。それが衰えかけたとき、彼は極東にキャバレーまわりに出た。彼の妻はソ連人の両親の子ではあったが、上海生まれであり、そこでネルヴィツキーと出会い、結婚したのであった。一九四三年、彼らはモスクワに移り、妻はあまり華々しくはない映画女優になった。[…]
驚いた。こんなところでヴェルチンスキーと再会するとは。「おそらく六十代」というカポーティの見立てどおり、このとき彼は六十六歳。そして二年後には死を迎えることになる。
それにしても、三十一歳のカポーティの観察眼はすでに透徹していて怖いほどだ。ほんの行きずりの対象でしかなかった老芸人の一生を、短い文章のなかで、それこそ走馬灯のように巡らせてみせる。ここからあの老熟した掌篇集『カメレオンのための音楽』までは、もうほんのわずかである。
なお、この「ポーギーとベス」ソ連興行の顛末については、Hollis Alpert の労作 "The Life and Times of Porgy and Bess"(Alfred A. Knopf, 1990)に詳しいので、ぜひご一読あれ。同書によれば、正式なクロニクラー(記録者)としてツアーに同行しながら、勝手気侭なルポルタージュしか書かなかったカポーティは、ツアー・メンバーたちの顰蹙を買ったとのことである。