(承前)
『熊のプーさん』と『プー横丁にたった家』の版権を他社に奪われた形になった岩波書店だったが、そのあいだ岩波はただ手をこまねいて傍観していたわけではなかった。
戦後の焼跡のなかから新しい児童文化を興すことに、岩波書店もまた並々ならぬ意欲を示していた。戦前からの編集者、吉野源三郎と小林勇がその企ての強力な推進役であった。実は戦後まもなくの時分から、石井桃子のもとにも「上京して岩波で児童書の編集をしてほしい」という慫慂がたびたび寄せられていたのである。
岩波書店では、吉野を中心に戦時中から少年少女文学の叢書を刊行する構想があった。石井の回想を引く。出典は『月刊絵本』1974年2月号所収のインタヴューである。
[岩波]少年文庫は戦争中から企画があり、宝島やその他いくつか原稿はできていたんですよ。終戦後それを続けようということになり、時勢も変わり、人も変わり、再出発ということで、『クマのプーさん』で関係のあった私にお話があったんです。当時私は、宮城県で百姓をしておりました。闇市などの横行する東京で生活するような意地の強さがなかったんです。でも、何年かするうち、百姓生活は現金収入がないので、酪農組合をつくるのに困ってしまいまして、一緒に始めた人に私が月給をとってくるからと、岩波の仕事をお引き受けしたんです。普通、こんなことをしてはいけないのでしょうが、宮城と東京を往復しながら少年文庫を編集しました。世界の子どもの古典から百冊なり二百冊なり、もとのプランを手なおしして組みたて、……その中には日本のお話も入れていくという方針でした。世の中が激しく変わった時代ですから、漢字や仮名遣いもちょうどその時期に変わり、文部省に聞いてもそちらで考えてくれなどという状態でした。また組合の規約が厳しかったものですから、四時以降は仕事を家へ抱えて帰って夜中まで、朝は六時から……。いま考えると、あの頃は、ほんとうに戦後でした。月二冊本にしていくというのは本当に容易ではありませんでしたよ。
石井が岩波書店の嘱託として入社し、「岩波少年文庫」の編集に取りかかったのは1950年5月のことである。始まりはこんな様子だったらしい(「河野与一先生のこと」1962)。
一九五〇(昭二五)年五月の末ごろ、私は岩波書店の編集室のすみの、ポツンと孤立した机にかけて仕事をしていた。私は、この書店で新しく出そうとする少年少女むけの双書を編集するべく宮城県の山の中から出てきたところだった。が、出てきてからわかったのだが、私を呼んだのは経営者たちで、組合はまだその仕事を承認していないのだった。そこで私は、そこにいても、いないも同様、まわりの人たちは私を見ても、私がそこにいるという表情を、まったく示さなかった。
1950年12月25日、クリスマスの日に「岩波少年文庫」は発刊された。最初の配本は以下の五冊である。
(1)スティーヴンスン 『寳島』 佐々木直次郎訳
(2)ウェブスター 『あしながおじさん』 遠藤壽子訳
(3)ディケンズ 『クリスマス・キャロル』 村山英太郎訳
(4)ハムズン 『小さな牛追い』 石井桃子訳
(5)ケストナー 『ふたりのロッテ』 高橋健二訳
今日の眼からみると、どうということのない書目に思える。戦中から準備していたというから、必ずしも石井桃子の意中のラインナップではないかもしれないが、早くも石井の訳書が入っているし、戦前の新潮社「日本少国民文庫」で「点子ちゃんとアントン」が紹介されたケストナー、訳者も同じ高橋健二で『ふたりのロッテ』が訳されているのに注目したい。
翌51年になると、いよいよ編集者としての石井の采配ぶりが明らかになる。
(6)ハムズン 『牛追いの冬』 石井桃子訳
(20)マックロスキー 『ゆかいなホーマー君』 石井桃子訳
があるほか、これも「日本少国民文庫」以来の盟友である中野好夫を訳者とする『ガリヴァー旅行記』(8)、『続ガリヴァー旅行記』(10)、編集者でもある吉野源三郎の訳したド・ヨング『あらしの前』(22)がある。『ドン・キホーテ』(18)を永田寛定、『グリム童話選』(上、21)を相良守峯、『三銃士』(23)を生島遼一に訳させるというのも贅沢な布陣である。
このほか、戦時下で児童文学翻訳に手を染めていた光吉夏弥にラングの『りこうすぎた王子』(7)を、村山知義・亜土父子に『ロビン・フッドの愉快な冒険』(14・17)を、渋い私小説で知られる網野菊に『夢を追う子』(14)をそれぞれ依頼するなど、訳者の人選に抜群のセンスが光る。
だが、極めつきはなんといっても次の一冊だろう。
(12)ロフティング 『ドリトル先生アフリカ行き』 井伏鱒二訳
「白林少年館出版部」の最初の版からちょうど十年。ようやく「我が家」に帰還したこの本が、石井にとってどれほど感慨深いものだったか。
1952年にはさらに、『ドリトル先生のサーカス』(25)と『ドリトル先生の郵便局』(35)が井伏訳で加わる。53年には『ドリトル先生のキャラバン』(60)が、55年には『ドリトル先生月へ行く』(107)が、60年には『ドリトル先生航海記』(194)が加わる…。井伏はついにドリトル先生シリーズをライフワークとして完訳し、『ドリトル先生物語全集』全十二巻(1961-62)に纏め上げたことは誰もが知るところだ。
そして56年、ついに『クマのプーさん』(124)が「岩波少年文庫」に入った。58年には『プー横丁にたった家』(174)が仲間入りを果たす。また、これは「少年文庫」枠ではないが、1963年には石井桃子訳の『たのしい川べ ヒキガエルの冒険』が「岩波の愛蔵版」の一冊として刊行されている。
若き日に石井がはぐくんだ夢が、四半世紀の歳月を経て、ことごとく現実のものとなった。
石井は53年12月、光吉夏弥の助力を得て、小型絵本シリーズ「岩波の子どもの本」を創刊させる。戦後の絵本出版史で最初の大事件であるこのシリーズについては、語ることがあまりに多いので、いずれ稿を改めて詳述することにしよう。
「岩波の子どもの本」がようやく軌道に乗った54年、石井桃子は岩波書店を退社し、一年間の留学に出る。アメリカとヨーロッパの児童書関係者を精力的に訪ね歩く旅であった。
石井桃子のもうひとつの見果てぬ夢、四谷の「白林少年館」以来の児童図書館の夢はどうなったか。
帰国後の1958年3月、石井は外遊中の見聞を踏まえて、荻窪の自宅の一郭に家庭文庫「かつら文庫」を開設した。その実践的な体験は、やがて『子どもの図書館』(岩波新書、1965)としてまとめられることになろう。
それからすでに半世紀近い月日が流れた。
素晴らしいことに、「かつら文庫」は今もなお現役の図書室として存続している。
なんという幸福な人生であろう。
だが、そこには困難な時代があり、人知れぬ艱難辛苦があった。すべてを失う絶望も味わった。
「一粒の麦もし死なずば」と古人は云う。ちっぽけな麦粒は地上に落ちて死なねばならない。だが、そうすることでやがて、そこから幾百、幾千の稔りがもたらされる。
われわれはひとり残らず、石井桃子という麦粒から生い茂った、広大な麦畑のなかで生きているのである。