(承前)
「白林少年館」が犬養毅に因んで命名されたことはすでに述べた。
毅は信州富士見高原に別荘をつくり、これを「白林荘」と呼んだ。自ら「白林堂主人」と号して、大自然のなかで悠々自適の老後をと願ったのだが、心ならずも政界復帰を余儀なくされ、五・一五事件で非業の死を遂げた。「白林」とは白樺林の意で、この風雅な別荘は今も昔のままの姿で現存する。石井桃子もここに招かれたことがあるという。
石井が自らの活動拠点を「白林少年館」と名づけたのは、もちろんその建物が思い出深い毅の書庫だったことに拠るが、高邁な理想を掲げて読書にいそしんだ文人宰相への思慕の念の表れでもあったと推察されよう。犬養健がもと「白樺派」の作家であったという含みもにじませてあったかもしれない。
私は、自分の子ども時代に本を読みふけったたのしさは忘れないし、そのたのしさを本を買えない子どもたちに味わってもらいたいと思い、また子どもたちといっしょに本を読んで、人生と日本語の勉強をしたいと思ったのだ。そして、一時は、ずいぶんこの計画に熱中した。
が、そのうち、戦争がだんだんひどくなり、その他にも困難なことがたくさん出てきて、その部屋は半分できかけて、子どもたちも集まるようになってから、たち消えた。
いっぽう、「白林少年館出版部」の名で始めた児童書出版も、『たのしい川邊』(1940年11月刊)と『ドリトル先生「アフリカ行き」』(1941年1月刊)の二冊が出たきりで沙汰止みとなった。
本当はこれに続いて、同じく井伏鱒二訳で「ドリトル先生」の続編の刊行も夢見たろうし、実際に訳出も進んでいたのだが(「ドリトル先生船の旅」、『少年倶楽部』41年1月号から連載)、石井たちの資力は微々たるものだったし、原動力たる図書室が不首尾とあっては、出版活動への意欲も尽き果てたのであろう。
41年の秋頃には「白林少年館出版部」は事実上消滅したとおぼしい。なぜなら、その年の暮れに、全く同一の井伏訳による『ドリトル先生アフリカ行き』が別の出版社から再刊されているからである(フタバ書院、1941年12月15日刊)。手塩にかけて育てた「ドリトル先生」を、あっさり他社に横取りされた石井の悔しさはいかばかりだったろう。ついでに附言すると、このフタバ書院版「ドリトル先生」は43年5月にも増刷されている。
岩波書店から二冊目の訳書『プー横丁にたった家』が出たのが1942年6月。
それからあと、石井桃子の足取りはぱたりと途絶える。年譜でもここから1945年夏までは空白で、ただ「戦争中の息苦しさのなかで、創作を始める。」とあるのみなのだ。
私設図書館の夢も、英米児童書の翻訳・刊行の夢も、端緒に就いたばかりで挫折した。
気がつくと、周囲は忠君愛国の本で埋めつくされていた。失意と無力感のなかで、石井は「ほとんど無意識のうちに──というのは、これが本になるだろうかとか、大勢のひとに読んでもらいたいとかいう気持ちなしに──書きつづけ」るようになった。「隣家のラジオから、山本五十六大将の戦死のニュースがもれて来て、茫然とした」というのだから、1943年のことだろう。
「ノンちゃん」を書いているころ、私の心は倦(う)んでいた。後年、そのころの私自身の状態を説明するのに、私はよく酸欠の金魚が水面であっぷあっぷしていたようなという、まことに即物的な形容を使った。自分自身に世界情勢を見ぬく力もなく、自分の国のゆく先の見えない思いは、まったく窒息寸前に似ていた。
上に引いたのは、それから半世紀近く経った1991年に書かれた「自作再見『ノンちゃん雲に乗る』」という文章の一部である。
(明日につづく)