(承前)
1941年10月15日早朝、尾崎秀実、東京・目黒の自宅にて逮捕。
三日後の10月18日早朝、リヒャルト・ゾルゲ、東京・永坂町の自宅にて逮捕。同日ほぼ同時刻に、ゾルゲの協力者のマックス・クラウゼンとブランコ・ド・ヴーケリッチも、それぞれの自宅で逮捕された。
特高警察はすでにゾルゲ組織の日本人諜報員二名を捕えて、有力な手掛かりを得ていたため、首謀者と目される尾崎とゾルゲの同時逮捕を狙っていたというが、ゾルゲは「フランクフルター・ツァイトゥング」紙特派員であるとともに、ドイツ大使館とも深い繋がりをもつ人物であるため、同盟国ドイツへの政治的配慮から、その逮捕拘留には動かし難い物的証拠が必要だった。そのため、まず尾崎を検挙して具体的な自白を引き出し、しかるのちに本丸たるゾルゲの逮捕に踏み切ったといわれる。
それにしても、これは日独両政府にとって驚天動地の出来事であった。
尾崎は第一次近衛内閣の嘱託として1938年7月から39年1月まで政策立案に深く係わってきた人物であり、逮捕時点でもまだ近衛内閣の私的諮問グループ「朝飯会」の一員であった。
一方のゾルゲも、新聞社の通信員を務める傍ら、ドイツ大使オイゲン・オットが最も信頼する友人であり、その私設報道員の肩書も得ていた。
日独それぞれの政治中枢に近しい人物がソ連のスパイだとすれば、これは由々しき大事件にほかならない──そう判断した日本政府は、取り調べが進み、予審請求手続きが完了するまでの七か月間、この事件を一切公表しなかった。
尾崎を内閣嘱託として身辺に置いていた近衛文麿の責任は甚大だったはずだが、皮肉なことに尾崎逮捕の翌日の10月16日、第三次近衛内閣はわずか三か月で瓦解し、内閣総辞職を天皇に願い出ていた。そして二日後の10月18日、つまりゾルゲ逮捕と同じ日に、次の内閣が組閣された。日本を全面戦争へと導くことになる東条内閣である。
尾崎逮捕のニュースは、おそらくその日のうちに四谷の犬養邸にもたらされただろう。捜査当局は厳重な緘口令を敷いていたが、犬養家には首相官邸をはじめ、さまざまな情報ルートがあったので、この知らせをいち早く耳にすることができたと推察される。
逮捕の三日前、というから10月12日であろう、犬養道子は尾崎秀実に会っている。尾崎は道子が外国切手を収集しているのを知り、「決して手に入らない」特別な切手を進呈しよう、と申し出たのである。例によって『ある歴史の娘』から引く。
私は彼からの連絡を受けた。例の切手を持って行く。私の胸は高鳴った。
もはや本ものの菓子の仲々に手に入りがたい時期に入っていたが、菓子を出して食べのこしたためしのない彼のために、私は母にせがみ、[…]神田の和菓子屋からいくつかの菓子を買ってもらった。
約束の時間に尾崎さんは汗を拭き拭きあらわれた。黄菊白菊の時節と言うのに、彼は汗掻きであったから。
切手の話ならふたりきりになりたいんでしょと母は笑って席をはずした。苦心の菓子を供したテーブルの上に、彼は無言で懐中ポケットからていねいに紙で包んだ切手をとり出すとパッと並べた。ほとんど百枚。
あ!
私は思わず息を呑んだ。
すべてはソ聯赤軍と共産党の特別切手記念切手であったから。
私はそれらから眼をはなすと顔を上げて尾崎さんを見た。頭の中で何かが忙しく回転しはじめた。彼は私をじっと見ていた。笑わない眼で見ていた。私は何かしら彼の「信」のようなものを感じて感動した。この人を裏切るまい……
「尾崎さん、これ道子がだいじに預る。人に見せない」
これが尾崎との「今生の別れであった」と、道子は感慨深く記している。
(つづく)