(承前)
『たのしい川邊』が出た一か月後の1940年12月16日、石井桃子の初めての訳書『熊のプーさん』が刊行された。
本当はこれこそ白林少年館出版部から出されるべき書目なのだが、版元は岩波書店。「あとがき」によれば、その陰には吉野源三郎の尽力があった。吉野は新潮社の「日本少国民文庫」をともに編集した石井の元同僚であり、岩波書店に移ってからも児童書刊行をめざしたのだ。訳文の校閲を中野好夫に依頼したことも「あとがき」に記されている。中野は『たのしい川邊』の訳者であり、「日本少国民文庫」でもチャペックやキプリングの短篇を訳したことはすでに述べた。
この年のクリスマスを犬養家がどのように過ごしたか。残念ながらそれを跡づける記述は残されていない。
クリスマス・ツリーは飾られていただろうか。もしそうだとしたら、そこには石井から贈られた『熊のプーさん』がさりげなく置かれていたのではないか。きっとそうに違いない。
あの日から七年が過ぎ、はしゃぎ回り、笑い転げていた康彦ももう六年生。19歳になった道子は津田英学塾を一年半ほどで退学し、これから進むべき道を模索中だった。
明けて1941年。1月21日には白林少年館出版部からの二冊目の(そして最後の)出版物『ドリトル先生「アフリカ行き」』がひっそりと刊行された。
訳者・井伏鱒二の「あとがき」を改めて引いておくと、
[…]この書物を出版する石井さんといふ人が、今度から兒童用の圖書室を開設されることになりました。もうせん亡くなられた犬養さんの書庫を提供され、それを改造して塾のやうな家を造るのです。そして知り合ひのうちの子供さんたちを集め、童話を讀んだりお話をしたりして互に樂しい一と時を送らうといふのです。
犬養家の正月は慌しく明けたとおぼしい。2月にはまたしても健の上海行きが控えていた。しかも今度は単身ではない。娘の道子も同行するのだという。南京政府顧問・犬養健の秘書として。しかも「外務省嘱託を命ず」という辞令つきで。
もう牧歌的な時代は終わったのだ、犬養家にとって。もちろん、日本全体にとっても。
二冊の書物を刊行した「白林少年館」はこの年、四谷の犬養邸で図書室を開設することができたのだろうか。
たしかなことは不明だが、もし活動を開始したとしても、それはごく短命に終わることを、あらかじめ運命づけられていた。
この年の秋、衝撃的な知らせが飛び込んできた。
10月15日、尾崎秀実が逮捕されたのである。
(明日につづく)