(承前)
1940年11月21日、石井桃子の個人出版社「白林少年館出版部」から最初の児童書が刊行された。ケネス・グレアム作・中野好夫訳『たのしい川邊』である。
先日、神奈川近代文学館でこの本も見てきた。同書は架蔵してはいるのだが、残念ながら裸本なので、きちんと調べてみたいと思ったのだ。
来てみてよかった。ここの収蔵本には当初のカヴァーがきちんと残っていた(先日、同書は函入りではないか、と記したのを訂正せねばならない)。そのカヴァー袖には登場人物、というか出てくる動物たちの紹介文とともに、次のような面白い文章が載っていた。
題して「サンタ・クロースはゐるか、ゐないか」。
いまから四十年あまり前、アメリカのニューヨークに住むヴァージニア・オハンロンという小さい娘さんが、友だちと議論をしました。友だちは「サンタ・クロースなんてゐない。」といふし、ヴァージニアは「ゐる」といふのです。その晩、ヴァージニアは、大へん困つて、「ニューヨーク・サン」といふ新聞へ手紙を書きました。
「私は八つです。私の友だちが、サンタ・クロースはゐないと言ひました。『サン新聞』でゐると言へば、ゐるだらうと、お父さんは言ひます。どうぞ、ほんとのことを教へて下さい。サンタ・クロースはゐるのでせうか?」
その翌日の「サン新聞」に、フランシス・チャーチといふ人の書いた返事が出ましたが、それは大勢の人によまれ、大へん有名になりました。大體、それはこんないみでした。
「ヴァージニアさん、サンタ・クロースはゐますよ。私たちの心に、愛情とか、思ひやりの氣持が生きてゐるやうに、生きてゐます。
サンタ・クロースを信じないなんて、お伽ばなしがわからないと同じです。大勢の人を雇つてクリスマスの前の晩、一本殘らずの煙突を見張りさせても、サンタ・クロースは捕らないでせう。でも、それはゐないといふ證據にはなりません。世の中で最も尊く、美しいことの多くは、目に見えないことなのです。私たちは、信じ、愛し、夢見ることなどにより、幕の向ふの多くの眞實を見ることが出來るのです。
サンタ・クロースは生きてゐます。そして、千年後でもまだ生きてゐて、子供たちの心を喜ばせるでせう。」
さて、これはアメリカのお話です。みなさんはどうお思ひですか?
この無署名の文章を書いたのが石井桃子その人であることは、ほとんど疑う余地がない。
本の刊行がクリスマスの一か月前だから、という事情もあるが、それより何より、彼女はこのときどうしてもこのエピソードを通して語らずにはいられなかった。「世の中で最も尊く、美しいことの多くは、目に見えない」、そして、「信じ、愛し、夢見る」ことで、「幕の向こうの多くの真実を見ることができる」のだ、ということを。
最後の一節の「さて、これはアメリカのお話です。」がピリリと効いている。「私たちの国、日本でははたしてどうなのか?」という問いかけが、ほとんど喉元まで出かかっているように思われるのだ。
1940年のクリスマスにはまだ、これだけの真実を述べる自由が残されていた。でも、それを実際に口にするのは勇気の要ることだったろう。
(つづく)