(承前)
1938年、密命を帯びて中国へ赴くにあたって、犬養健は妻・仲子にだけはこっそり真相を打ち明けた。娘・犬養道子の回想記『ある歴史の娘』からその件りを引く。
何かが起っていた。昭和十三年夏のさかり。
家庭内の問題はいっとき棚上げされた。私はいま、いとおしみとおかしさを以て、あのころの父と母を思わずにいられない。メロドラマ的な場面すら演じた葛藤のふたりは、結局、底の底において相ゆるし相信じた夫婦であったのだ。そうでなければ夫婦間の愛憎の問題を「いちじ棚上げ」して、夫は極秘の計画を打ちあけ、妻は誇りと使命感──そう、母仲子はたしかに使命感を感じていた──を心につよく抱きつつ、「何ごともふたりの間にはなかったように」その計画のための旅立ちをいそいそと準備したり出来るものではなかった筈だ。「棚上げ」をして、父と母はふたり、父の書斎で何かを長い間話した。日常身辺的な話でないことは(いわんやふたりの問題でないことは)すぐにわかった。
仲子はその話のあと、「些か上気して、日本国内ではおよそ不要の伝染病のための薬や、強力な消毒剤を」手際よく取り寄せたという。仲子の実家は医者だったから、この方面はお手のものだったのである。
翌39年3月。夫の今度の行き先は仏印(ヴェトナム)のハノイだという。仲子は慌しく夏服やら木綿のシャツやら、キニーネやらを旅行鞄に詰めた。旅先での健はもはや「衆議院議員・犬養健」ではなく、「砂糖商・伊沢検一」になりすます。身分を隠した変名での危険な旅だったのだ。
[…]車に乗りこむとき、父はふと振りかえり、夫婦の間の私事など忘れはてた顔つきで、信頼をこめて母を見た。後事を托すようなことをひとこと言った。母は──私の知る母はこのようなときにこそ、一切のわだかまりや感傷感情を片づけてしまう女(ひと)であった──しっかりとうなずいた。そして私は、この伊沢検一の旅の内容を知る私は、あるいはこれがパパの見おさめかもしれぬと思い、はなむけのために万感をこめて微笑して見せた。私は歴史の流れを感じていた……歴史の流れにさからう一握りの人々の小さな必死の努力を感じていた……
「熊プー」を囲んだ和やかなクリスマス・イヴからわずか五年。犬養家の人々がかくも困難な状況に直面しようとは、誰しも予想できなかったろう。
健が日中和平工作の交渉相手として選んだのは汪兆銘(汪精衛)という政治家である。
汪は国民党の指導者として蒋介石に次ぐ実力者だったが、蒋との確執が表面化し、38年12月には重慶を離れた。汪はもともと親日派で知られ、抗日戦のさなかにあって日本との和睦の方途を探っていたのである。日本側も陸軍・参謀本部・外務省の一部が密かに動いて、和平交渉の可能性を模索していた。健の上海滞在のほとんどは汪兆銘側との困難な折衝に費やされた。
汪は転地療養の名目でしばらくハノイに滞在していた。39年4月、健らは同地で極秘裏に汪と接触し、和平交渉に入るとともに、講和条件の大枠について話し合った。
日本側が和平交渉の相手に、蒋介石ではない人物を選んでしまったところに、初めからボタンの掛け違いがあったことは、七十年後のわれわれの眼には明らかだが、近衛内閣が「蒋介石は相手にしない」と明言してしまった以上、これは避け得ない苦渋の選択だったともいえよう。
汪兆銘は1940年3月、南京に「遷都」を行い、新「国民政府」を樹立する。汪の信頼厚かった健は、乞われて政策顧問として同政府にポストを得た。11月、日本政府は汪兆銘政府との間で和平に関する条約を結び、中国の唯一正当な中央政府として承認した。
もっとも、諸外国の眼は冷ややかで、汪政権の承認に踏み切ったのはわずかに独・伊二国のみ。日本の息のかかった汪国民政府は、占領下の傀儡政権と見なされたのである。
その間、中国大陸での戦火は収まるどころか、拡大の一途を辿る。泥沼と化した日中戦争は、もはや誠実な外交努力の積み重ねでは如何ともし難いところまで来てしまっていた。
(つづく)