(承前)
石井桃子が自らの夢を託した児童図書室・出版所「白林少年館」。その拠点となった四谷の犬養邸にも、時代の荒波がひたひたと押し寄せてきつつあった。
1933年の五・一五事件で犬養毅が斃れると、その秘書を務め、すでに衆議院議員であった健が次代当主として、父の遺志を引き継ぐことを決意する。健の有望な作家としてのキャリアは途絶してしまう。
これを機に、犬養家を取り巻く人間模様は一変する。毅を永く支えてきた「子郎党」は急速に後景へと退き、代わって健の友人たち──20世紀に生を享け、大正時代に自己形成した新世代の者たちが足繁く犬養邸を訪れるようになる。
その世代交替を間近から眺めていた犬養道子は、その新参の「若い連中」の代表格として、西園寺公一(1906年生まれ)と尾崎秀実(1901年生まれ)の二人の名を躊躇なく挙げている。
西園寺は健よりも十歳年下だが、ともに有力政治家の家系に生まれた幼馴染とあって、「公(こう)ちゃん」「健さん」と呼び合う昵懇の仲だった。石井桃子と「熊プー」の出逢いの、そもそもの発端が「公ちゃん」からのクリスマス・プレゼントだったことはすでに述べた。
尾崎秀実は中国通の新聞記者として夙に頭角を現し、まず西園寺がその才能に注目した。やがて頻繁に犬養家の客となり、家族同然のつきあいを深めていく。
犬養健は1937年6月、近衛文麿を首班とする第一次近衛内閣に「逓信参与官」として参画した。この役職そのものは閑職だったようだが、国政の中枢に身を置く機会を得たことに変わりはない。
近衛には私的な懇談グループ「朝飯会」があり、リベラルな若手識者をブレーンとして集めていた。西園寺も尾崎もその常連メンバーであり、健はここでも二人とたびたび顔を合わせ議論を交わした。
近衛内閣にとって喫緊の課題は敵対する日中関係だった。7月の盧溝橋事件に端を発する戦火は瞬く間に拡大し、8月からは上海での激しい攻防戦、12月には南京制圧と、日本軍の中国侵攻はとどまるところを知らなかった。
優柔不断で決断力を欠いた近衛首相には、軍部の暴走を抑えることができない。
父親譲りの中国贔屓だった健は、尾崎、西園寺らとの語らいのなかで、ひとつの大きな決断をする。自ら上海に飛び、水面下で極秘裏に和平交渉のお膳立てをしようというのである。1938年1月、近衛政権が蒋介石を無視し、「国民政府を対手とせず」との声明を発した直後である。
(明日につづく)