石川町駅で降りて元町のリセンヌ小路を港の方へと歩く。
途中でちょっと早めの昼食。釜揚げシラスと浅葱のスパゲッティが美味しい。絶品だ。
元気が出たところで急坂を登り、港の見える丘公園へ。
神奈川近代文学館で、石井桃子訳『熊のプーさん』初版本(岩波書店、1940)を初めて手に取る。この一冊だけは未架蔵なので、今日のエントリーを書く前にどうしても目を通しておきたかったのだ。
併せて、犬養健、西園寺公一、尾崎秀実についても調べごとを少々。
夕方まで居て、もと来た道を駅まで戻る。途中で自然食品の店で壜入りのエルダーフラワー・コーディアルを二本購入。これを炭酸で割って飲むのが愉しみなのだ。
これで材料はすべて揃った。石井桃子の青春時代、その続きに取りかかろう。
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(承前)
石井桃子が四谷の犬養健邸の書庫を借りて、友人たちと児童図書室「白林少年館」を始め、わずか数か月で挫折したのは1938年のことである──そう信じられていて、岩波書店の『石井桃子集』の年譜にもそのように記載されている。
しかしながら、管見の限りでは、それはもう少し後の出来事のようにも思われる。
昨日引いた犬養康彦の回想でも、「僕が中学校にあがった頃、うちの庭の離れで…」とあり、生年(1928年)から数えると、それは1941年のことという計算になろう。
1941年1月刊行の『ドリトル先生「アフリカ行き」』の「あとがき」で、井伏鱒二が「石井さんといふ人が、今度から兒童用の圖書室を開設されることになりました」と、「近未来形」で記していることも、図書室開設が1941年だった可能性を強く示唆している。
そもそも、この『ドリトル先生…』と、二か月前に出た中野好夫訳『たのしい川邊』の二冊は、「白林少年館」に常備し、子供たちに読んでもらうことを企図して、「白林少年館出版部」から刊行されているのである。もしも通説のように「白林少年館」が1938年に開設され、しかも数か月で瓦解してしまったのなら、これらの本はそもそもの刊行目的を失ってしまうのではなかろうか。
ここで石井の身辺で起こった出来事を時系列に整理してみよう。
1936年6月/石井、「日本少国民文庫」の編集を終え、新潮社を退社。
1937年/四谷の犬養健邸が新築落成。
1938年/石井の親友が亡くなる。荻窪の家を譲り受ける。
1939年3月/石井の母 なお、病歿。
1940年11月21日/『たのしい川邊』、白林少年館出版部から刊行。
1940年12月16日/『熊のプーさん』、岩波書店から刊行。
1941年1月24日/『ドリトル先生「アフリカ行き」』、白林少年館出版部から刊行。
1941年9月/石井の父 福太郎、病歿。
1942年6月27日/『プー横丁にたった家』、岩波書店から刊行。
『楽しい川邊』『熊のプーさん』『ドリトル先生…』の三冊が、まるで申し合わせたように三か月連続で刊行されているのは、はたして偶然なのだろうか。
せっかくなので、今日コピーしてきた『熊のプーさん』初版本の、訳者・石井桃子の「あとがき」をここで紹介しておこう。
はじめて私が、プーといふ熊を知つたのは、いまから七年前の十二月二十四日でした。
その日、私の小さい──その時は小さかった──お友だちの犬養道子さんをお訪ねすると、道子さんたちのクリスマス・トリーの下においてあつた、朱色のカヴァーのかゝつた薄い本、それがこの「熊のプーさん」(もとの名は "Winnie-the-Pooh" といひます)の後篇、「プー横丁に出來た家」"The House at Pooh Corner" でした。
私たち──道子さんや、まだ小學校へも上らなかつた、道子さんの弟さんの康ちやんや私は、なんといふこともなく、ストーヴの前で、その本を讀みはじめたのです。けれど間もなく、ストーヴのそばは、大さわぎになつてゐました。その時、一ばん、ヤケドしさうにころがつて笑つたのは、「彼」とは「ぼく」のことかと思つたといふ康ちやんだつたでせう。でも、こつそり、一ばんひどいプー熱にかゝりかけてゐたのは、案外、大人の私だつたかも知れません。
その後しばらく、私たちは、會ふ毎にプーを語り、手紙毎にプー語を書き、そしていつの間にか、プーの生みの親を、お友だちでも呼ぶやうなつもりで、ミルンさんなどと呼んでゐました。[…]
それから七年間、いろいろのことがあつて、私たちはいつも、プーの話をしてゐたわけではありません。でも、プーのあの丸々した、あたゝかい背中はいつもそばにありました。その背中は、私たちが悲しい時、つかれた時、よりかゝるには、とてもいいものなのです。とりわけ、私が深くプーに感謝したのは死を前にしたある友だちを、プーが限りなく慰めてくれた時でした。
ある時、その友だちがふざけて、私に言つてよこしました──「誰でも行くといふ三途の河原といふところへ私も行つたら、幼くて亡くなつた子供たちを集めて、幼稚園を開きたい。でも、その時、プーが日本語を話してゐないと、私はどもつてしまひます。」 そんなわけで、私がその友だちのためにした拙い譯を、今度本にすることになりました。愛情と機智で出來上つてゐるやうなミルンさんの本を前にして、私は全く、ある時のフクロのやうに、手も足も出ない気持です。それでもなほ、この本を、私の手からみなさんにお贈りするのは、もう一度、ミルンさんの言葉をお借りするなら、こんなに長い間かはいがつてゐたプーを、ひと手に渡すことが出來なかつたからです。
「昭和十五年十一月」と明記されたこの文章は、このあと石井が繰り返し語ることになるプーとの「馴れそめ」の、最初のヴァージョンである。
文中の「それから七年間、いろいろのことがあつて」「私たちが悲しい時、つかれた時」とあるなかに、児童図書室の試みと挫折ははたして含まれているのか、いないのか。
『ドリトル先生…』の戦後の再刊(光文社、1946)の「あとがき」で、井伏は1941年版の「あとがき」をほとんど踏襲しつつ、次のように「過去形」で語っている。
ところが、私の知人の石井桃子さんといふ人が、先年、兒童用の圖書館を開設されることになりました。もうせん亡くなられた犬養木堂さんの書庫を犬養家から提供され、それを改造して塾のやうな家を造らうといふ計畫でした。知り合ひのうちの子供さんたちを集め、童話を讀んだりお話をしたりして互ひに樂しい一時を送らうといふのです。(石井さんのこの抱負は、太平洋戰爭がはじまつて世のなかに變動があつたので、とうとう實現できませんでしたが)[…]
この物語は、太平洋戰爭のはじまる直前に、いま言つた圖書館用のものと石井さんの知人に配布するものの外に、一般に讀んで頂くためのものも少しばかり印刷發行したのです。
(明日につづく)