(承前)
犬養道子の自叙伝はかけがえのない貴重な証言に満ちているが、叙述はきわめて融通無碍、ラプソディックで、必ずしも時系列に沿わないため、注意深く読まないと重要な細部を見落としてしまう。
五・一五事件からあとの多感な思春期を記した第二作『ある歴史の娘』には、犬養毅の遺した四谷の邸宅を取り壊し、「ロンドン・ケンジントンあたりにありそうな英国風の家」を建てる話がちらっと出てくる。1936年から37年にかけてのことである。その新築工事に采配をふるい、「たれも思いも及ばなかった建築設計の異常な才」を発揮したのは、道子の母・仲子だったという。この家は空襲を免れ、犬養家の手を離れてからも長く上智大学の女子寮「明泉寮」として親しまれた建物である(1990年代に取り壊し)。
ちょうどその頃と思われるのだが、仲子と夫・健との関係に大きな亀裂が入ったとおぼしい。きびきびとした道子の筆も、さすがにこの件りでは滞りがちである。
[…]私は、珍しい、曾て知らなかったものを見る眼で、父と母を眺めやった。ふたりは別々の思いを抱き、相互いにとっても私にとっても、別の人になっていた。ふたりを包む空気は重かった。冷えこんで氷のように痛かった。
白樺派の文士に嫁いだつもりの仲子にとって、思いもよらぬ「代議士の妻」の生活は「総毛立つほど嫌」だったし、「努力すればするほど馴染まない心の疲れ」に苛まれ、煩悶するばかりの毎日だった。
いっぽう、夫の健は1937年の第一次近衛文麿内閣に参画したのを機に、悪化の一途を辿る日中の関係改善に深く係わり、38年以降は和平工作のために上海に長期逗留する日々が続く。妻の身を省みる心のゆとりはなかったとおぼしい。
四谷の犬養家には、いつしか家庭崩壊の危機が忍び寄っていたのである。
石井桃子はその間もしばしば犬養家を訪れて、嫌な顔ひとつせず、仲子の話相手を務めていた。石井自身も38年に最愛の親友を喪っている。二人は深い悲しみを知る者同士だったのである。
そんなある日、石井の口から、子供たちのための図書室を開設するという夢が語られ、すっかり意気投合した仲子が、その実現のために自邸の一部(毅の遺した別棟の書庫)の提供を申し出る…。このような成り行きだったと推察されるのだ。
道子の弟・康彦は最近の回想でこう語っている。
僕が中学校にあがった頃、うちの庭の離れで、石井さんは児童図書館を兼ねた出版社「白林少年館」を始めました。白林、というのは祖父が隠居していた別荘の名前なんです。石井さんも遊びに来られたことがありました。この出版社から、井伏鱒二訳の『ドリトル先生「アフリカ行き」』が初めて世に出ることになります。
なるほど、そういうことだったのか。
石井の「井伏さんとドリトル先生」(1998)という文章から引く。
私の書斎(というのも、少し大げさすぎるのだが)の本棚の一隅に、私が物を書きかけたころの、思い出は深いが、ほかの人には価値のない本を積み重ねておく場所がある。
その中に、幅十三センチ、縦二十センチ弱、厚さ一センチほどの、まことにスレンダーで可憐な、赤い表紙の、特別な本が一冊、はさまっている。ほかの本は日に焼け、よごれているが、この本だけは表紙の色が褪せないように紙で包み、ビニールの袋に入れてある。私は、時どき、この本を出しては眺めるのだが、その度に、もしこの本が井伏さんのお宅に残っていれば、別の話だけれど、もしそうでなければ、この本は日本にこれ一冊ということになるかもしれない。[…]
奥付を見れば、すぐわかることだけれど、この本こそは、昭和十六年一月二十四日発行の井伏鱒二訳、『ドリトル先生「アフリカ行き」』の初版本(白林少年館出版部版)なのである。この奥付のいく行もない活字にざっと視線を移していくだけでも、私の胸には、さまざまな思いがこみあげてくる。
そうか、そんなにも稀少な本だったのか、これは。
改めて手に取って、そっと奥付頁を開いてみる。
昭和十六年一月十五日印刷
昭和十六年一月廿四日發行
發行所 白林少年館出版部
白林には「ハクリン」とルビが振られている。
「發行者」として「飯塚未與志」という未知の名が記される。いったい誰だろう。
そしてその名前の脇に、ごく小さな活字で
東京市四谷區南町八八
とある。現在の住居表示では東京都新宿区南元町六。信濃町駅のすぐ脇の高台あたり。
もちろんこれこそ、四谷の犬養邸の所在地にほかならない。
(明日につづく)