(承前)
1933年のクリスマスに石井桃子と「熊プー」との出会いの場となった東京・四谷の犬養健邸は、さまざまな意味で若き日の石井の活動の拠点となった。
犬養邸を訪れると、決まってプーが話題に出た。「道子さんたちとは、会うたびにプーの話をし、手紙もプー語で書くようになった」。
読み聞かせを続けるうちに、翻訳して本にしたらどうかという話にもなる。
[…]道子さんたちといっしょに、プーを訳して、西園寺氏に校閲してもらって、本にしようかというような話も出たけれど、結局、それから何年かして、私ひとりで本にすることになったのは、私の中で、プーが日本語でしゃべりはじめてしまったからであった。
石井には少し年上の病身の親友がいた。余命いくばくもない彼女にぜひ読ませたい一心から、『熊のプーさん』と『プー横丁にたった家』の翻訳は、その友人が亡くなる1938年までにいちおう終了していたようだ。この二冊は紆余曲折を経て、それぞれ1940年と42年に岩波書店から刊行される。
ところで、四谷の犬養邸では、それよりももっと「大それた」計画が持ち上がっていた。1938年のことといわれるが、定かではない(残念ながら、石井はこのあたりの事情を漠然としか書き記していないのだ)。
まず1952年の「子どもの本屋」というエッセイから引く。
ずいぶん前、私はふたつのことをしたいと考えていた。一つは、小さい農場を経営(というほど大げさなことではなかったが)することと、子どもの図書室をつくることだった。子どもの図書室には、できれば、本屋もつけたかった。
けれども花の話や畑の話や本の話をいっしょにした友だちが死んでからは、戦争の終わりごろまで、あまり畑仕事をするということは考えなくなった。そして、その友人が死んでしばらくしてから、ほかの友だちと話しているうちに、ふっと子どもの図書室ができそうなことになってきた。ある人が、適当な家を貸してやると言い、また方々の家から子どもの本を集めてやると言ってくれたのだった。
[…]子どもたちといっしょに本を読んで、人生と日本語を勉強したいと思ったのだ。そして、一時は、ずいぶんこの計画に熱中した。
もうひとつ、これはどうしても出典に辿り着けず、孫引きになるのだが、1958年の「とびたとうとする鳥」という文章の一節。
[…]もう二十年近くまえ、私が、ある夫人にこの話をしたら、その人は、即座に、その人のもっていた借家を、一軒無料提供してくれました。私は、それこそ夢中で、本をかき集め、家の掃除をし、壁に絵をはり、そして、子どもをかき集めました。
土曜日ごとに、子どもが本をよみに通ってくるようになりました。
しかし、それは、もう中国との戦争がはじまっている頃でした。つぎつぎにおこる悪條件のため、すべり出した小図書室は、何ヶ月かでおしまいになりました。
引用の引用なので、冒頭の「この話」が何を指すかがわからないが、おそらく石井が英語文献で読んだ海外の子ども文庫の成功例の話だったと推察される。
石井自身は明言を避けているが、これらの文章で「適当な家を」「無料提供して」くれた「ある夫人」とは、犬養健夫人の仲子にほかならない。「その人のもっていた借家」とは、犬養家の書庫だった建物なのである。
ここですでに引用した井伏鱒二の文章をもう一度、読み直してみてほしい。
ところが、この書物を出版する石井さんといふ人が、今度から兒童用の圖書室を開設されることになりました。もうせん亡くなられた犬養さんの書庫を提供され、それを改造して塾のやうな家を造るのです。そして知り合ひのうちの子供さんたちを集め、童話を讀んだりお話をしたりして互に樂しい一と時を送らうといふのです。しかし心ある子供さんたちに讀んできかせるには、すぐれた童話でなくてはいけません。それで石井さんは自分の圖書室用の書物として、このドリトル先生「アフリカ行き」物語を選び、私に飜譯してくれと申されました。
(明日につづく)