(承前)
"The House at Pooh Corner" との偶然の出会いと相前後して、石井桃子は文藝春秋社をあっさり退社した。
1929年12月の入社からちょうど四年、それ以前のアルバイト期間も含めると五年ほどの在籍だったが、彼女は社長の菊池寛や上司の永井龍男から多くを学び、そこに集う綺羅星のごとき作家たちと昵懇の間柄になっていた。辞めた理由は明らかではないが、石井が「熊プー」との出会いを機に子供の本の世界に目を開かされたことと、それは無関係でなかった気がする。
翌1934年6月、石井は新潮社で山本有三のもと、新しい児童向け叢書の編集に携わる。1935年から三年がかりで全16冊出た「日本少国民文庫」がそれである。執筆陣には山本有三のほか、菊池寛、水上瀧太郎、豊島予志雄、吉野源三郎、石原純ら、錚々たる書き手が加わり、戦前の子供向けシリーズのなかで最も野心的で妥協のない編集方針が貫かれた。
『人間はどれだけの事をしてきたか』『君たちはどう生きるか』『人生案内』『人類の進歩につくした人々』『心に太陽を持て』…。タイトルをチラリとみただけでも、この叢書の生真面目なまでに高邁な理想主義と人道主義が看取されよう。これは1930年前後のロシア絵本のある種の傾向と、おそらく軌を一にするものである。「子供たちと真剣に向き合う」という、国境を越えた時代精神の表れなのだろう。
石井桃子は文春時代に培った人脈を、この「日本少国民文庫」の編集にあたって大いに活用したことは想像にかたくない。恩師にあたる菊池寛が著者の一人として名を連ねていることからも、それは明らかであろう。
石井は本シリーズの大半の編集に携わったほか、第15巻『世界名作選 2』(1936)では自ら翻訳者としてふたつの短篇を訳出している。ヘンリー・ヴァン・ダイクの「一握りの土」と、ウィルフレッド・グレンフェルの「わが橇犬ブリン」である。ついでに、同書ではチャペックの短篇「郵便配達の話」の翻訳を、中野好夫が手掛けていることも記憶しておこう。
六十数年後、石井はこう回想する(「『世界名作選』のころの思い出」1998)。
『世界名作選』の編集会議には、岸田國士、阿部知二、中野好夫、吉田甲子太郎、物理学者で歌人の石原純先生たちが出席されて、本当に和気藹々、ユーモアもたっぷりで、知的な方々というのはこんなに楽しい会話ができるのだなあと羨ましく思ったものです。
[山本有三]先生は、そのころの日本に育つ子どもたちのことをとても重く考えておられたようです。昭和十年前後ですから、日常生活が困窮をきわめるとか、敵性国家の作品は翻訳してはならないというところまではまだいってなかったのです。でも昭和六年に満州事変、七年に五・一五事件、そして十一年には二・二六事件ですから、その頃育ちつつある子どもたちが、どっちの方向に向かっていくかということを、とても案じておられたと思います。もっともっと広い世界があるんだよ、ということを伝えようとなさったのではないでしょうか。
編集作業のかたわら、石井は鍾愛の "The House at Pooh Corner" と、その前篇 "Winnie the Pooh"、ケネス・グレアムの "Wind in the Willows"、ロフティングの "The Story of Doctor Dolittle" など、1920年代の英米児童文学を次々に「発見」し、一読者として心ゆくまで愉しむとともに、編集者・翻訳者として、それらを瑞々しい日本語に移しかえることを強く希うようになっていく。
(明日につづく)