(承前)
1933年のクリスマス。西園寺公一から犬養家の子供たちへと手渡された一冊の本。それがひとりの女性の人生を大きく変える契機となった。そしてそれは、日本の児童文学の歴史における決定的な曲がり角にもなるのである。
さあ、いよいよ石井桃子に登場してもらおう。ことの経緯を彼女自身はどのように回想しているのか。1969年6月の『図書』に載った「プーと私」というエッセイの一節から引用しよう。元の雑誌がすぐに出てこないので、『石井桃子集 7』(岩波書店、1999)所収の同文から引く。
一九三三(昭八)年のクリスマス・イーヴに、私は、そのころ、信濃町の駅のすぐ上にあった、故犬養健氏邸をたずねた。当時、私は、雑誌社に勤めていて、はじめ、仕事のことで健氏と知りあい、そのうち、いつのまにか、夫人やふたりのお子さんたち(いまは評論家として活躍中の犬養道子さんと共同通信社の康彦さん)たちと親しくなってしまっていたのであった。その夜も、きっとクリスマスのことで伺ったのにちがいない。
のちには建てかえられたが、そのころの犬養邸は、ライト式の簡素なバンガロー風のつくりで、大谷石をつかった玄関をはいると、中庭を囲むように廊下がカギの手に曲っていて、その左へ曲る角のところが、小さなホールになっていた。
その夜、そこには、小さなクリスマス・トリーが飾られていて、その下に、あまり新しくない朱色の(と、私は記憶している)ジャケットのかかった本が一冊おいてあった。(ほかに何か贈り物があったのかどうか、その夜おこったことで、プーに関すること以外のことは、みな、記憶がうすれてしまった。)
当時、小学四年くらいだった道子さんが、「公ちゃんがくれたの。」といって、その本を私に見せた。本の題は、"The House at Pooh Corner" というので、トラやクマらしいものや、小さい男の子などの、とてもいい、たのしい絵がついていた。扉には「康彦君 パパに読んでおもらいなさい 公一」ということばが書かれてあった。
道子さんたちが、公ちゃんと呼んでいたのは、西園寺公一氏のことであった。そこに書かれている文字が、たいへん美しく、ことに公の字が私にはよく見えたので、自分の名をこのように書ける人は幸いなるかな、と思ったことをおぼえている。そして、またそのページには、その本は、それより何年かまえに、西園寺氏が、イギリスにいたころ、ある夫人からおくられたものである旨が、英語で書いてあった。
私がそんなところを順々に見ているうちに、道子ちゃんと康ちゃんは、それまでもよくしたように、「読んで! 読んで!」を唱えはじめていた。
私は、ストーヴのそばに腰かけて、読みはじめた。
その時、私は、その本の著者についても、その本に登場するクリストファー・ロビンやプーやコブタについても、何も知らなかった。だから、私は、小さい聞き手に何の予備知識もあたえないで、いきなり、「ある日、プーは──」とはじめたのである。
その時、私の上に、あとにも先にも、味わったことのない、ふしぎなことがおこった。私は、プーという、さし絵で見ると、クマとブタの合の子のようにも見える生きものといっしょに、一種、不可思議な世界にはいりこんでいった。それは、ほんとうに、肉体的に感じられたもので、体温とおなじか、それよりちょっとあたたかいもやをかきわけるような、やわらかいとばりをおしひらくような気もちであった。
こうして書き写しているだけで、本という魔法の世界に惹き込まれてしまいそうな素晴らしい文章である。このエッセイそのものが、なんだか上質なファンタジーのようにすら思えてくる。でもそれは、確かに1933年のクリスマスに東京で起こった出来事なのだ。
石井桃子はこの稀有な出会いについて、折に触れて何度も語っているが、ここではごく最近、彼女が96歳で上梓した訳書『ミルン自伝 今からでは遅すぎる』(岩波書店、2003)の「訳者あとがき」から引用させていただく。
それは今からではもう七十年も前の、一九三三年のクリスマスイヴのことでした。その頃、駈けだしの編集者であった私は、仕事の関係で親しくしていただいていた作家、犬養健氏のお宅を訪問していました。すると、その晩、犬養家の小さなクリスマスツリーの下には、私の記憶では、朱色と覚えているカバーのかかった、うす手のかっちりした本が立てかけてありました。それはイギリスから帰国された健氏の友人から、健氏のお子さんたち、道子さん(小学三、四年生)と康彦さん(就学前)へのプレゼントということでした。
その時「読んで」という道子さんたちの言葉のままに手にとった本の表紙には、題名としては、"The House at Pooh Corner"、著者は、A・A・ミルンと記されていました。どちらも私の初めて見る名でした。私は何の先入主もなく、読み始めました。こうして読み始めて何分も経たないうちに、私の心身を襲ったのは、私の一生のうちで、あとにも先にも経験したことのない生理的感覚でした。私は、温かい紗のカーテンのようなものをくぐりぬけて、全く別の、たのしい、温かい世界にさ迷いこんでいたのでした。聞き手の道子さんや康彦さんたちは、そばで笑いころげていました。
その夜、私はその本を借りて帰り、深夜、ひとりで読了しました。お話は十篇。大人のひとりもいない、自由な、幸せの森に、ひとりの少年(まだ幼い)と、その子の友だちの動物たちが、それぞれの家を持っています。それぞれが皆、はっきりした性格というか、生き方を持ち、その性格のくい違いからさまざまな事件が起こるのですが、どんな事件も、それぞれの登場人物たちの思いやりやら、機転やらで、ドラマは幸せに終ります。対話は笑いに満ち、読み終えた私の全身を満たしていたのは、幸福でした。
う~ん、こちらも素晴らしい。読んでいると、それだけで幸福になってしまいそうな、本との純粋な出会いの瞬間をつぶさに書き留めた、たぐい稀な文章なのである。
(明日につづく)