(承前)
井伏鱒二が「あとがき」で明かしているように、『ドリトル先生「アフリカ行き」』は、「この書物を出版する石井さんといふ人」の切なる願いによって、井伏の達意の日本語をまとって世に出た。
しかもその「石井さん」なる人物には確固たる目的があった。
「石井さん」は「今度から兒童用の圖書室を開設されることになりました。もうせん亡くなられた犬養さんの書庫を提供され、それを改造して塾のやうな家を造るのです。そして知り合ひのうちの子供さんたちを集め、童話を讀んだりお話をしたりして互に樂しい一と時を送らうといふのです」。そのためには、読むに価する優れた童話がぜひとも必要だ。「それで石井さんは自分の圖書室用の書物として、このドリトル先生『アフリカ行き』物語を選び、私に飜譯してくれと申されました」。多忙な井伏をおもんぱかって、「石井さん」は自ら下訳まで買って出たというのである。
井伏がさらりと触れている「もうせん亡くなられた犬養さん」とは、1932年5月15日、首相官邸で凶弾に仆れた宰相・犬養毅(つよし)のことである。毅の孫にあたる犬養道子の自叙伝『花々と星々と』(中央公論社、1969)の一節を引いてみよう。中国通で膨大な漢書を手元に置いていた晩年の毅が、蔵書整理に手を焼く件りである。
「たれか、よい人はおらんかの」
私たちの家の茶の間の、長火鉢の向うから、お祖父ちゃまが父にそう言ったのは、いつごろだったろう。
「漢文は出来ぬでもエエ。図書の好きな人ならエエわ」
玄関わきにはあんなに多くの「崇拝者」が、ひきも切らずに出たり入ったりしているのに、書物整理の手つだいの出来るほどの人物は、ただのひとりもいないのであった。政治家の玄関とはそんなていどのものなのだった。
「訊いてみますよ」と父は言った、
「菊池にでも聞いてみますよ。きっと見つかりますよ」
菊池とは、文芸春秋の菊池寛さんのことだった。
そしてある日、「お父さん、いい人が見つかりましたよ。菊池君が、あの人なら、と、いろいろ探したりしらべたりしたあとで、太鼓判を捺してくれましたよ」
「おお、そうか」と、お祖父ちゃまは、ビスケットの罐をひっぱり出して数えたときのような可愛い笑顔を見せた。
「その人はいつ来るね」
「お父さんのいいときに。いつでも」
「おお、そうか。それは有難い」
その人の来たその日を、私は決して忘れない。有難いのはお祖父ちゃまだけにとどまらないことまではまだ予測しなかったけれど。
その人との出会いのおかげで、その後の長い歳月をどれほどにか豊かなものにされた母にとって、父にとって、私にとって、弟にとって、その日は記念すべき日であったのである。
どうにも手がまわらず、ぎっしりの書物がただ積み重ねてだけあった「土蔵」と呼ばれる書庫のみが、その人の恩恵を受けたのではなかった。
意外に若い人だった。
もっと意外だったのは、女の人であったことで。海老茶の袴をはいていたとは、私の記憶ちがいかしらん。
「石井桃子です」
と、その人は、それこそお祖父ちゃまの丹精の、バラのように薄ら紅い頬に笑みを湛えて自己紹介をした。若々しいが地味であった。地味だが明るかった。清潔で温かかった。
「これはいい人にちがいない」少女の直観で私はそう思った。
背中を丸めた老人と、日本女子大を出た若い桃子さんとの取合せは、ことにそれが漢書を仲だちにしてのものであるだけに、ちょっと見には異様でもあった。
が、彼女が来るようになってから、お祖父ちゃまのどこかしらにまつわっていたあのあわれっぽい雰囲気が、さっぱり取れてなくなったのを私はじきに発見した。それも、桜の花びらの舞う季節であったと憶えている。最後の重い任を負って死んでゆく、ほんの僅か前のことだった。
「五・一五事件」勃発の「ほんの僅か前」の「桜の花びらの舞う季節」というのだから、時は1931年4月ということになろう(32年ではあまりに直前すぎよう)。ならば「私」こと犬養道子はそのとき10歳になるかならないか。石井桃子とて文藝春秋の駈け出し編集者時代、ようやく24歳になったばかりだった。
春風とともに犬養家に姿を現した、このメアリー・ポピンズを彷彿とさせる女性は、やがてここで思いがけず、彼女自身の生涯を決定づける一冊の本との出逢いを体験することになる。
(明日につづく)