世界で最初にステレオ録音のLPが発売されたのは1958年のことである。
その詳しい経緯は、岡俊雄さんのLPレコード史に関する不朽の名著『マイクログルーヴからデジタルまで』(ラジオ技術社、1981)に縷々述べられているが、要するにそれに先立つこと三、四年前、1954~55年頃から各レコード会社はスタジオで実験的にステレオ収録を始めており、58年にようやく機が熟したと判断して商品化に踏みきったのである。
もっとも当初はステレオ再生装置はほとんど普及していなかったので、モノーラル盤と並行して少枚数のステレオ盤が市販されたに過ぎなかったのだが。
ピアノ独奏や声楽独唱などはともかく、大編成のオーケストラ曲などではステレオ録音の威力は絶大であった。各楽器がしかるべき位置に定位して聴こえ、パートごとの分離が格段に違う。従来のモノーラル録音とはまるで比較にならないのだ。小編成の音楽でも、例えば弦楽四重奏とか、ジャズのセッションなどでは、演奏者の配置に応じて音が明瞭に分離するステレオ録音の優位は誰の耳にも明らかだった。
オペラやミュージカルの場合も、舞台上での人物の動きを彷彿とさせる臨場感という点で、断然ステレオ録音に利があった。1956年3月、ブロードウェイで幕開けした新作ミュージカル「マイ・フェア・レディ」はただちにモノーラルLPが発売されたが、ロングランを続けるうちにステレオ時代を迎えたため、三年後の1959年2月、ロンドン公演のさなかに改めてステレオで再収録された(ジュリー・アンドルーズ、レックス・ハリソン以下、主要キャストは同一)。どちらの録音も今ではCDで手に入るので、双方を聴き比べてみるのも一興であろう。
60年代に入ると、クラシック音楽のスタジオ録音については、あらゆるセッションがステレオ収録されるのが慣わしとなった。ただし、ポップスの分野ではモノーラル収録がその後も長く続き、例えばビートルズの初期の音源はおおむねモノーラルだったりする。
ところで、どんな技術開発でもそうなのだが、ステレオ録音には長い前史があった。
これまた上記の岡俊雄さんの本からの受け売りなのだが、1881年のパリ国際電気博覧会で、すでに複数のマイクロフォンから収音した音を両耳で聴くと立体的に聞こえるという実験がなされ、評判を呼んだのだという。
1950年代の実用化に先立つこと二十数年前、1930年代初めにアメリカのニュージャージー州のベル研究所で、二本のマイクで演奏を同時収録し、ステレオ録音を行う本格的な実験が数多く行われた。ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団が奏でるスクリャービン「プロメテウス」、ムソルグスキー「展覧会の絵」の一部などのSP録音(1930~31年)が現存し、小生もそれを覆刻したLPを聴いたことがあるが、ステレオで堂々と鳴り響くのに驚かされた。
さて、今日ここで取り上げるのでは、それらとは違い、ほんの偶然からたまたまステレオ収録されてしまったという、すこぶる面白い録音である。
英国の作曲家エルガーは晩年、自作のレコーディングに熱心に取り組んでいた。死の一年前にあたる1933年4月11日、彼はロンドンのアビー・ロード・スタジオでBBC交響楽団を率いて「コケイン(ロンドンの下町)序曲」の録音に取り組んでいた。
そのとき、スタジオにはたまたま二本のマイクロフォンが立てられていたとおぼしい。機材の不測のトラブルに備えて、安全策のため二つのターンテーブルを回して、二枚の原盤に同時収録したのであろう(蛇足ながら、当時はテープレコーダーはまだ存在せず、ワックスの原盤に直接溝を刻んで収録した)。とにかく、このときの「コケイン序曲」の、少なくともその後半約五分については、全く同一の演奏ながら微妙にバランスの異なる二種類のSP盤が現存する。一方は市販された正規盤、他方はテスト盤である。
このことに気づいたのは Brad Kay というレコード収集家である。彼はまず1932年のデューク・エリントン楽団のレコードで同様の現象に気づき、苦労して調べた結果、ストコフスキー、クーセヴィツキー、グーセンス、そしてエルガーの指揮したSPレコードのなかに、そうしたサンプルを発見した。
二枚のディスクを完全に同調させながら再生させてみると、あら不思議、そこには確かに「ステレオ」と呼ぶほかない音空間が広がるのが実感される。二本のマイクは恐らく互いに近接した位置にセッティングされていたはずなので、のちのステレオ録音のように明瞭な分離は望めないが、それでも木管楽器の定位は確かだし、弦楽器の配置もなんとなくわかる。Kay はこの種の録音を "accidental stereo" すなわち「偶然のステレオ」と命名したという。
この、「たまたま録れてしまった」ステレオ録音によるエルガーの「コケイン序曲」は "Elgar Conducts Elgar" という廉価盤CDでたやすく聴くことができる(Naxos 8.111022)。
これはなかなかの聴きものですよ! 演奏はちょっとオールド・スタイルながら、品格と威厳のそなわった秀演なのだ。