日記なんて、夏休みの絵日記以外つけた記憶が全くない。
前にも少し話題にしたことだが、文章を書くのは子供の頃からずっと苦手だった。今でもその意識は根深く残っていて、手紙を出すのはひどく億劫だし、頼まれてたまに書く原稿も、なかなか捗らずに必ず辛吟する。
こうして毎日欠かさずエントリーを続けている自分が不思議でならない。きっとブログには、どこか文章よりも喋りに近いところがあるのだろう。
小学二年から五年までずっと担任だった鈴木重夫先生は、どんな教科も一通りこなされたが、その本領は国語教育にあった。埼玉県でも指折りの書道の名人で、正月の書初めの授業のとき、素晴らしい達筆で「歳月不待人」(陶淵明の漢詩の一節)と大書されたのを、今でもありありと憶えている。「わかるかい、この意味が」と問いかけながら。田舎の小学生にはちょっとハイブロウすぎたのだが、こうして記憶に残っているところをみると、それなりに強い印象を受けたのに違いない。
鈴木先生は四年間いつもきまって小生を級長に指名した。それだけ目をかけてくれたのだろうが、いささか有難迷惑でもあり、ときに困惑させられた。やれ硬筆習字コンクールだ、やれ読書感想文コンクールだ、と、いつもご指名で小生に参加させようと仕向けるのだ。
いつのことだったか、「体の不自由な子供たちを励ます」作文コンクールというのに参加させられたことがある。「そんなの僕には書けません」と断ればいいものを、先生の信頼を裏切ることができず、ズルズル引き受けてしまったのだ。でも、書くことなど何一つ思い浮かばない。身近なところに「体の不自由な子」なんていなかったのだから、それも当然であろう。
もう明日は提出日という夜、土壇場になっても小生は一行も書けず、原稿用紙を前にめそめそしていた。帰ってきた父に「どうしたのだ?」と聞かれ、正直に窮状を告白したら、「ふうん、そうか。わかった、今夜はいいからもう寝なさい」と言われ、その晩はそのまま泣き寝入り。
翌朝早く、父に揺り起こされた。すると、あら不思議や、原稿用紙が文字で埋まっているではないか! 父がテーマに合わせて作文を代筆してくれたのだ。慌ててそっくり丸写しして、それを鈴木先生に提出した。情けないやら、不甲斐ないやら、疚しいやら。先生の顔を直視できなかったのを憶えている。
驚いたことに、この作文がコンクールの県大会で入選してしまったのだ。鈴木先生に連れられて表彰式に出かけたときの惨めさといったら…。
このことがあって以来である。作文が小生にとってトラウマと化してしまったのは。
(明日につづく)