雲ひとつない夕暮時。広重の浮世絵のようなグラデーション、地平線の彼方には影絵のような紫の富士山。その斜め上に宵の明星、さらにその上の中空には(ほぼ)半月が煌々と輝く。
今日はずっと家にいて延々とデスクワークだった。といっても、日向で絨毯に腹這いになって、あれこれ音楽をかけながらだが。
それもちょっと飽きがきたので、息抜きにさっき宅急便で届いたばかりの本を読み出したら、これが面白いのなんのって。あっと言う間に読了。
ルイ・グレーラー『ヴァイオリンはやさしく 音楽はむずかしい』
羽仁結訳、全音楽譜出版社、1985
副題に「二十世紀楽壇の逸話集」とあるように、軽い読物ではあるのだが、なにしろ書き手が凄い人なのだ。
ルイ・グレーラー Louis Graeler(1913‐1987)はニューヨーク生まれのヴァイオリニスト。師ウィリアム・クロールに誘われてクロール弦楽四重奏団の第二ヴァイオリン奏者になる。その後、NBC交響楽団に入団し、長くトスカニーニの下で活躍。トスカニーニ歿後はシンフォニー・オヴ・ジ・エア、ニューヨーク・シティ・バレエ管弦楽団のコンサートマスター。1960年、渡辺暁雄に請われて来日、新設の日本フィルハーモニーのコンサートマスターを永く務めた。その後もずっと日本に住み、多くの弟子を育て、この本を出版した二年後の1987年に亡くなった。
小生がクラシックを聴き始めた1960年代末から70年代初め、日本フィルの演奏会に行くと、小太りの素敵な碧眼紳士が優雅に構えてオケを率いる姿を目の当たりにしたものだ。イシュトヴァーン・ケルテス、オッコ・カム、渡辺暁雄、小沢征爾などが指揮台に立つ姿が今でも瞼に浮かぶ。
そんな絢爛たる経歴をもつグレーラーさんのことだから、話題もトスカニーニ、ストコフスキー、モントゥー、ビーチャム、カンテッリ、ハイフェッツ、エルマン、さらにはバランシン、タルラ・バンクヘッド、ゼロ・モステル…と多士済々。
ひとつだけご紹介しようか。
NBC響にブルーノ・ワルターが客演したときのこと。リハーサルでモーツァルトの40番交響曲を練習しようと指揮棒を上げた途端、「紳士諸君、あなた方はすでにこの曲を何回も演奏し、熟知している。私もまた然り。だから練習はやめにしよう!」。団員は口々に「ブラヴォ」と歓声をあげ、さっさと散っていった。
別のとき、今度はトスカニーニが同じこの40番を練習することになった。彼もタクトを振る手を急に止めて、こう言った。「紳士諸君、われわれはこの曲をもう何度となく弾いてきた。もう君らも私も慣れきってしまい、この曲は埃にまみれた。どうだろう、今日はひとつ、積もった埃を払い落として、いっそこの音楽を初演するつもりで、みっちり演ってみよう!」。
ワルターとトスカニーニ、どちらの本番も素晴らしい出来だったという。
まあ、ざっとこんな調子。さらりと気軽に読めるのだが、資料的にも第一級の証言が満載。音楽好きには必携の一冊ではなかろうか。
ただし、翻訳がなんとも杜撰。読み易くはあるのだが、固有名詞の表記がすさまじいのなんの。「ハンフリー・ボガード」「トルラ・バンクヘッド」「ゼロ・マステル」あたりは可愛いほうで、「クーセビッキー」「モントウ」「レオナルド・ローズ」「アルツール・バアルサン」はあんまりじゃないか、全音楽譜さん。バルサンじゃ殺虫剤だぞ。