(昨日の続き)
ポール・マッカートニーは当初この "Those Were the Days" を「アメリカのフォークソング」だと信じ込んでいたようだ。ところが、実際にスタジオでレコーディングするにあたって、彼は「古びた田舎の感じ(old country feel)」を出すようアレンジャーに求めたという。
その結果、バックバンドには生ギター、バンジョー、ヴァイオリン、コントラバス、チューバ、クラリネットなどに混じって、珍しい撥弦楽器ツィンバロム cimbalom までが持ち込まれた。よく知られるように、これはハンガリーのジプシー楽団につきものの楽器であり、どうやらこの時点で、少なくともマッカートニーとアレンジャーとの間では、漠然と「東欧っぽい雰囲気」をこの曲にまとわせるという暗黙の了解があったことをうかがわせる。
ところで、"Those Were the Days" の「作者」であるアメリカ人ジーン・ラスキンは、どのような径路でロシアの古い流行歌「長い道 Дорогой длинною」を知るに至ったのだろうか。
周知のとおり、19世紀末になるとアメリカにはユダヤ系を中心に夥しい数のロシアからの移民が流入した。ロシア革命と引き続く内戦の時代を経て、その数はいっそう増大をみせる。そうした移民たちの間で、1917年モスクワで生まれた「長い道」が細々と唄い継がれ、それがなんらかの口伝えにラスキンの知るところとなった…と一応は推測できよう。だが、どうして他の曲ではなく、この「長い道」が半世紀を生き延びたのかは、やはり解けない謎というほかない。
そこにはロシアとアメリカ、異なった二つの時代を繋ぐミッシング・リンクが存在した。アレクサンドル・ヴェルチンスキーという名の流浪のロシア人がいて、国境を越えた「歌の伝播」に決定的な役割を果たしていたのである。
アレクサンドル・ヴェルチンスキー Aleksandr Vertinsky(1889-1957)はキエフ生まれのカバレット芸人。革命前夜のモスクワで、ピエロの扮装で自作のバラードを唄い、一大センセーションを巻き起こした人物だ。彼が根城としたペトロフスキー劇場には、黒服をまとったピエロ姿を一目見ようと熱心なファンが夜ごと参集した。
ポドレフスキー(詞)とフォミーン(曲)が書き下ろした新曲「長い道」を、逸早く舞台で唄おうとしたのは、ほかならぬヴェルチンスキーだった。ところが革命政府の許可が下りず、やむなく別の歌に差し替えたのだという。1917年10月25日のことである。
1919年、ヴェルチンスキーはウクライナ・南ロシア巡業に出たまま戻らなかった。故国をあとにしてトルコへ、そしてルーマニアへ。1923年にはポーランドとドイツで公演を催したのち、多くの同胞の住む街、パリへと辿りついたのである。ここで彼はモンマルトルのキャバレーの舞台に立ち、亡命ロシア人の間で絶大な人気を博することになる。「長い道」のSPを吹き込んだのもちょうどこの時期のことだったらしい。
ヴェルチンスキーはロシア人の住むところならどこへでも旅した。もちろんアメリカへも巡業した。客席にはラフマニノフやシャリアピンなど著名人の姿もみられ、マルレーネ・ディートリヒとも親しくなった。彼はアメリカでも必ずや「長い道」を唄ったことだろう。なんといっても評判の持ち歌のひとつだったのだから。
やがて大恐慌のあおりを食らって手許不如意となったヴェルチンスキーは、住み慣れたパリを離れ、1930年代を上海で暮らす。ご存知のように、ここも亡命ロシア人が数多く生活する国際都市だったのである。そして第二次大戦のさなかの1943年、彼はソ連政府の特別許可を得て、二十数年ぶりに故国の土を踏む。その後も彼は精力的にソ連各地を巡業して回り、ざっと二千公演をこなしたという。50年代には俳優として何本かの映画にも出演した。
以上が「放浪の旅芸人」ヴェルチンスキーの数奇な生涯のあらましである。情報源はおもに次のふたつのサイト。後者の「ロシア・エトランゼの系譜:ベルチンスキイの生涯」は大島幹雄さんの手になる労作である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aleksandr_Vertinsky
http://homepage2.nifty.com/deracine/circus/artist/vertinski-index.htm
1917年にモスクワで生まれた「長い道」が、半世紀を経てロンドンでポップソングとして再生し、世界的な大ヒットを果たす。その陰には、世界じゅうを流浪しながら、歌の生命を絶やすことなく各地に広めたひとりの旅芸人の存在があったのである。
1930年代、上海を拠点としたヴェルチンスキーは遠く満洲の地へも旅している。1936年のことだ。ハルビン(哈爾浜)で行われた公演には、ここに住む多くの亡命ロシア人が足を運んだという。この街で青春時代を送ったエレーナ・タスキナという女性の回想録『知らざれるハルビン』のなかに、そのときの思い出が綴られているという(上述の大島幹雄さんの記事による)。
そうか、そうだったのか、と小生はここでひとり合点する。
唐十郎が「少女仮面」の冒頭で、メリー・ホプキンの「悲しき天使」を大音声で鳴り響かせたのは、やっぱり故なきことではなかった。この芝居が舞台とする満洲の地で、ヴェルチンスキーの歌声に望郷の念をかきたてられ涙したロシア人が少なからずいた。「悲しき天使」=「長い道」はこの地と無縁ではなかったのだ。
哀愁漂うメリー・ホプキンの歌声の彼方に、茫漠たる満洲の地平線を幻視しようとした劇作家の直観の鋭さに、今更のようにたじろいでいる。