(承前)
その日、読売ホールを埋め尽くした大観衆も、それがどのような催しになるか、まるで予測できなかったと思う。収拾のつかないハチャメチャな会になる、ということ以外は。
二年ほど前から、山下洋輔たちはあちこちの媒体で冷やし中華をしきりに話題にしていた。その主張は単純明快。「冷やし中華が夏場しかメニューにないのはおかしい、真冬にも冷やし中華が食べたい!」というものだ。まあ、わがままとも、ごもっとも、ともいいうる理屈なのだが、そこにさまざまな尾鰭をつけて、壮大なるムーヴメントに仕立ててしまったところに、冗談や法螺話のメッカたる山下一派の真骨頂がある。
ちょっとした思いつきに端を発し、瓢箪から駒が出る塩梅で結成された「全日本冷し中華愛好会」(略して「全冷中」)は、新宿ゴールデン街にたむろするジャズメン、漫画家、物書きたちの間で、予想もしなかった盛り上がりをみせる。曰く、「冷やし中華の正しい作り方」「冷やし中華の本質とは何か」「冷やし中華はいつどこで生まれたのか」などなど。とりわけ冷やし中華の起源をめぐっては、トコロテンから派生したとする平岡正明説と、古代バビロニアに由来すると唱える奥成達説とが熾烈な論戦を展開する(「バビテン論争」)など、他愛ない冗談の域を超えて、むしろ真摯な、といいたいほどの昂まりへと向かったのである。
このあたりの経緯については、山下洋輔の著書『ピアノ弾き翔んだ』(徳間書店、1978)を参照されたい。あまりのばかばかしさに抱腹絶倒すること必定である。
1977年4月1日の「第1回 冷し中華祭り」は、秘密結社めいた「全冷中」の面々が初めてゴールデン街を出て広く世間にその姿を晒し、主義主張を訴える晴れの舞台だったのである。
前述の山下の著書に、この日の「式次第」が載っている。
●開会宣言/筒井康隆
●講演「冷し中華思想の変遷」/中洲産業大学教授タモリ
●対論「バビテン論争の総括」/奥成達+平岡正明
●演奏+舞踏「月の砂漠」/山下洋輔トリオ+稲生幸成、宇野萬(大駱駝艦)
●料理講座「正調冷し中華の作り方」/坂田明(助手:矢野顕子)
●コント「嗚呼! 冷し中華」石井愃一、坂本明、魁三太郎(東京ヴォードヴィルショー有志)
●来賓祝辞/池上比沙之→河野典生→山下啓義(ヒゲタ醤油)→岩本寛光(住宅新報社出版局)→麿赤児→デニス・ファレル→相倉久人+川村年勝(ソークメナーズ監督)+A子+ソークメナーズ選手有志
●座談会「漫画家にとって冷し中華とは何か」/黒鉄ヒロシ、高信太郎、長谷邦夫、長谷川法世
●歌/矢野顕子、三上寛
●全冷中支部長連あいさつ
●会長交代/山下洋輔、筒井康隆
●「ソバヤ」大合唱(リード・ヴォーカル:坂田明)
盛り沢山のプラグロムを書き写しながら、あの日のことを躍起になって思い出そうと努めたのだが、悲しいかな、甦るのは断片的な記憶でしかない。
筒井康隆の人を食ったような面妖な挨拶。
それに輪をかけて奇っ怪だったタモリのハナモゲラ語。
「料理講座」で助手を務めた矢野顕子の大胆なホットパンツ姿。坂田明もちょっと目の遣り場に困っていたっけ。
「会長交代」では、初代会長・山下洋輔がヒゲタ醤油(実兄の勤め先で、当日のスポンサー企業)との癒着の責任をとって退き、筒井康隆が二代目に就任する、という筋書だったと記憶する。
最後の「ソバヤ」大合唱では、舞台も客席も一体となって、ただもうわけもわからぬまま「ソバヤ、ソバーヤ」と絶叫するうちに幕となった…のではなかったか。
さすがに二十九年の歳月は争えない。憶えているのはこの程度のことだ。
ただし、ひとつだけ鮮明に記憶している一齣がある。
それは終盤近く、矢野顕子が一人で登場して、おもむろにピアノの弾き語りで一曲唄ったその歌のことである。
あまりにも素晴らしかったのだ。聴きながら電撃的なショックを受けた。そしてそれだけは、まるで次元の異なる体験として記憶に刻み込まれ、昨日のことのようにはっきりと思い出せる。歌声が今も耳元で鳴っているのだ。
そこで唄われたのは「誰も知らない」という曲である。
(続きはまた後日)