図書館は明日にしよう、なんて昨夜は書いてしまったが、今朝は大寝坊してしまった。慌てて予定を変更、二番目の目的地である神田神保町へと直行する。
正午きっかりに裏路地の喫茶店に到着。ここでナウカの(もう書店はないが、こう言い慣わしてきたので)宮本立江さんと情報交換。今日の話題は、自由学園明日館のこと、ロシア絵本のこと、岩波の子どもの本のこと、中条百合子と湯浅芳子のこと、などなど。あっという間に二時間半が経ってしまう。宮本さんは小生の知恵袋のようなお方なのである。再会を約して地下鉄で表参道へ。
青山学院大学で三時から「来日ロシア人研究会」例会。前回は欠席したので、四か月ぶりになるだろうか、毎回たいそう刺激的な発表があるので、極力出席させていただいている会だ。
今日は太田丈太郎氏が「『日本の若者、歌舞伎を語る』──宮本百合子のロシア語論文をめぐって」という瞠目に価する発表を行う。
1928年8月、市川左団次率いる歌舞伎一座がモスクワとレニングラードで本格的な興行を行って、ロシア演劇界に大反響を巻き起こしたことは日露文化交流史上の大事件である。にもかかわらず、これまで同時代史料のきちんとした研究がなされて来なかった。太田氏は先にサンクト・ペテルブルグの演劇博物館で「芸術雑誌 Zhizn' iskusstva」に掲載された歌舞伎関連記事を閲覧し、そのなかに中条百合子執筆の歌舞伎論(露文)を発見された。これまで研究者たちに見過ごされていたこの興味深いエッセイを全訳紹介するとともに、氏は彼女の論点のありかを論じ、その歌舞伎観の偏り(歌舞伎を封建的・反動的な演劇と決めつける)についても的確に指摘された。
小生はこの時期の日露交流に多大な関心を寄せているので、今日の発表はきわめて有益かつ刺激的なものだった。併せて紹介された音楽評論家ソレルチンスキー(ショスタコーヴィチの親友)の歌舞伎評(音楽がいかに演劇的に扱われているかを論じたもの)もたいそう興味深い。当時のロシア人が歌舞伎という異文化と誠実に向き合い、正当に理解したことを示す好例だと思った。
例会ではこのあとふたつの発表が控えていたのだが、残念ながら時間がきてしまい、後ろ髪を引かれつつ中途退席。小走りに地下鉄に駈け込み、息せき切ってアークヒルズのサントリーホールへ。東京交響楽団の定期演奏会。開場時刻の五時半に間に合わず、妹を待たせてしまう。
先日の日生劇場での「利口な牝狐の物語」に続き、今日はここで「マクロプロスの秘事」の上演がある。ヤナーチェクのオペラが立て続けに演じられるなぞ、日本で初めてのことではないだろうか。
「マクロプロスの秘事 Vèc Makropulos」(1926初演)は「マクロプロス事件」とも「マクロプロスの秘法」とも訳される。ヤナーチェク八番目のオペラであり、原作はカレル・チャペックの同名の戯曲(1922)。この芝居は日本でも戦前から翻訳があり、小生も数年前に日本の劇団が演じるのを観たことがある。
複雑な筋立てをもつこのオペラを要約するのは難しい。主人公は美貌のオペラ歌手で、男たちを悩殺し手玉にとるファム・ファタル。しかも彼女は16世紀のルドルフ皇帝(ティコ・ブラーエやケプラーのパトロン)時代から魔法の力で生き続け、当年とって337歳(!)という、途方もない設定なのだ。そこに百年前から続く遺産相続の訴訟がからむ。その発端となったのも、実は若き日(?)の彼女であり、錯綜する物語がすべて彼女の永年にわたる男性関係へと収斂していく、という展開だ。最後はヒロインが不老長寿の秘法を手放し、生き続ける空しさを悟って死んでいく。
オペラは原作にかなり忠実。ひたすら会話劇として進められる。舞台設定も法律事務所、歌劇場の楽屋、ホテルの一室なので、大掛かりな装置を必要としない。したがって、今日のようなセミ・ステージ上演(オーケストラの背後に簡単なステージを設け、椅子と机、鏡台などが置かれる)でも充分に鑑賞可能なオペラなのである。
チェコから優秀な歌手たちを招聘し、満を持して上演に臨む交響楽団の姿勢にまず好感がもてる。同楽団はこれまでに「利口な牝狐の物語」「カーチャ・カバノヴァー」「死者の家から」を同様の方式で上演しており、今回もそれらと同じチェコの演出家マルティン・オタヴァを招いている。指揮はこれまでの秋山和慶に代わり飯森範親が担当。演出も指揮もたいそう良かった。
この曲を生で聴くのはもちろん初めてだが、ヤナーチェク晩年の練達にして雄弁な管弦楽の扱いに舌を巻くことしきり。不老長寿をめぐる晦渋な会話劇が、音楽の力によってドラマティックな様相を強く帯びて、一瞬たりとも弛緩しない堂々たるオペラへと変容していることを実感した。飯盛の指揮はヤナーチェクの語法を手中に収め、丁寧で行き届いた出来である。歌手たちもそれぞれの人物を巧みに表象して申し分なし。先日の「牝狐」の惨憺たる上演とはまるで比較にならない。
附言すると、ヤナーチェクのオペラの書法はおそらくチェコ語の発声やイントネーションに依拠するところが大きく、別の言語で歌われると、その魅力の多くが失われるようだ。日生劇場での「牝狐」の不首尾は日本語上演だったことにも起因するものだろう(日本語訳そのものも品格を欠いていた)。
今日は演奏を存分に堪能できたので、二時間があっという間に過ぎた。久しぶりにオペラを楽しむことができて幸せである。この公演にあわせて刊行されたこのオペラの対訳・解説書(日本ヤナーチェク協会編)をロビーにて購入。同協会のこれまでの刊行物同様、懇切丁寧な労作だ。
終演後、近くのカフェで妹としばし雑談。演劇好きだがオペラは初めてという彼女も、どうやら退屈することなく楽しめたようだ。
盛り沢山な一日だったが、不思議にも疲れを覚えなかった。とはいうものの、明日は寝坊せぬよう、そろそろ休むとしよう。