少し寝過ごしてしまったが、十時過ぎに家を出て、久しぶりに西武池袋線・富士見台の「香菜軒」で昼食。入りたてのボジョレ・ヌーヴォーを飲みながら、選り抜きの前菜をいただく。いろいろメニューにないツマミ類も供され、メインのキーマ・カレーを経て、デザートとチャイに行きつく頃にはすっかり満腹。昼日中からこんな怠惰なことでいいのだろうか。
そのあと電車を乗り継いで上野へ。さすがに美術の秋とあって、平日というのに大変な人出である。もっとも小生のお目当ての展覧会にはほとんど人影はない。東京芸術大学大学美術館(大学がダブる奇妙な名称だ)で開催中の「斎藤佳三の軌跡」をじっくり観る。すいてる展覧会はいいものだ。
斎藤佳三(さいとう・かぞう 1887-1955)は東京音楽学校で二年学んだのち東京美術学校図案科に入り直したという経歴が物語るように、舞台美術(衣裳・装置)、家具設計と室内装飾、楽譜やSPレコード・アルバムの装丁、流行歌の作詞・作曲、はてはネクタイや浴衣のデザインまで手がけたマルチプルな人物である。
音校時代の先輩・山田耕作(のちの耕筰)の無二の親友であり、1913年には留学先のベルリンでいっそう親交を深め、画廊主ヘルヴァルト・ヴァルデンから表現主義版画を150点も借り受けて帰国、山田との連名で翌14年に東京で展覧会を開催した(日本におけるドイツ表現派作品の初紹介)。生活と美術をデザイン(図案・意匠)という領域で一つに結びつけることを終生の課題とし、戦時中は天平時代を範とした国民服を推奨し、晩年にはスクリャービンを彷彿とさせる「有鍵楽器の彩光投写装置」の製作をめざした(死によって実現せず)。
まあ早い話、大変な才人だったわけだが、どこか時代に乗り遅れた器用貧乏の気配も濃厚である。
ご遺族から膨大な遺品が東京芸大に寄贈されたものの、長らく未整理のまま死蔵されていた経緯があり、2003年に栃木県立美術館で催された「ダンス!」展に小生が係わったときも、それらはまるで未調査だったと記憶する。今回、主要な遺品を一堂に集め展覧会を開催するところまで漕ぎ付けたのは(美術館として当然の責務とはいえ)ひとまず偉とするに足る。
こうして斎藤佳三の業績を逐一つぶさに目にすると、かえってその全体像がわからなくなってくる。少しのちの村山知義にも似て、仕事があまりに広範囲に及ぶので、一人の人物の姿を想像するのがきわめて難しいのだ。
これは展覧会主催側にとっても同じとみえ、ざっと一読した印象で恐縮だが、カタログ所収の四論文はいずれも全体への視野を欠き、失礼な言い方になるが、群盲象を撫でるの感が否めない。とりわけ、永年にわたり斎藤佳三を研究対象とされてきた長田謙一教授の論文に詰めの甘さが目立つのは残念である。カタログに誤記・表記不統一・事実誤認が散見されるのもいただけない。
とはいえ、黎明期の新劇・舞踊のための衣裳デザインやら、奇抜というほかない「リズム模様半襟」や「表現浴衣」(!)、流行歌楽譜やクラシック・レコード・アルバムの装丁やらを眺めるのは無性に楽しく、時間の経つのを忘れてしまう。
あまりにも熱心に観たのでくたくたになって帰宅。カタログを精読したうえで、この展覧会にはもう一度出かけよう。(会期は12月17日まで)