(承前)
実を言えば、大枚はたいて手に入れた二枚組のうち、小生が喉から手が出るほど欲しかったのはもう一枚の切手のほうだった。
もともと発行部数が少なかったうえ、額面が80 GR(グロシュ)と高額なため使い勝手が悪く、実際に郵便物に貼られる用途も限られていたのだろう、こちらの切手を使用済で見かける機会はきわめて稀なのである。
刷色は薄暮の空を思わせる濃紺。縦長の印面にはコペルニクスの上半身が大写しに描かれる。背景は満点の星空。彼の視線は上方、すなわち天空へと注がれ、両手には彼の創案になる「太陽中心のシステム」地動説を図解したパネルがしっかりと握られている。この図案は何かもとになるような絵画は存在せず、おそらくこの切手のオリジナル・デザインであると思う。
すっかり満ち足りた気分でこの二枚の切手をしげしげと眺めていて、小生はふと、奇妙なことに気がついた。
どちらの切手にも、印面にはニコラウス・コペルニクスのポーランド名 MIKOLAJ KOPERNIK(ミコワイ・コペルニク)の綴りと、その生没年である 1473 と 1543 の二つの数字が明記されている。
それならば、である。この二枚の記念切手が発行された1953年という年は、はたしてコペルニクスの何にあたるのだろう。
歿後四百十年? まさか、それでは半端すぎる。それとも生誕四百八十年? これまたキリの悪い数字だ。地動説が発表された年はコペルニクスの歿年と同じなので、1953年とはどうにも結びつかない。一体全体、ポーランドはこの中途半端な年にどんな慶弔を記念しようとして、これらの切手を送り出したのであろうか。
次の日曜日、改めて原宿のフクオ・スタンプを訪れ、全世界の切手を収載した大冊「スコット・カタログ」のポーランドの部を調べてみたところ、この二枚組は1953年5月22日、「コペルニクス生誕四百八十周年」記念切手として発行されている。コペルニクスの誕生日は5月24日だから二日ほどずれるが、まあそれは大した問題ではないだろう。
やっぱりそうだった。これは季節を間違えて咲く花さながら、まるで見当外れの年に発行された記念切手だったのだ。どうしてそのようなことが起こってしまうのか。それも、ほかならぬコペルニクスの母国であるポーランドの地で…。
それから数か月後、この謎はふとした偶然から氷解する。
中学生になった小生は、その日曜もまたフクオ・スタンプで貼り込み帖を見ていた。ふと思い立ってナチス・ドイツ占領地域で発行された一冊を手に取ってみた。これを開くのは初めてのことだ。夥しい数のヒットラーの横顔とカギ十字。なんとも禍々しい頁が続いたあと、不意にコペルニクス切手に出くわし、心臓が止まりそうになった。
額面には1 zloty(ズウォーティ)+寄付金1 zloty とあり、これは紛れもなくポーランド地域で流通した切手であることを証拠だてる。にもかかわらず、国名表記はドイツ語で Deutsches Reich(ドイツ帝国)そして Generalgouvernement(総督府)とある。総督府とはポーランドの被占領地域を統括したドイツの行政組織のことだ。緻密な凹版で刷られたコペルニクスの肖像の両脇には、 24 . MAI 1543 そして 24. MAI 1943 の二つの日付がくっきり記されている。
そうなのだ、これこそは「コペルニクス歿後四百年」の記念切手だったのである(正確にいうと、コペルニクスを描いた普通切手に日付を加刷したもの)。ただし、そのとき地上にはポーランドという国家は存在していなかった。したがって偉人を顕彰する任務はナチス・ドイツがこれを代行した。それも「コペルニクスは実はポーランド人ではなかった、生粋のドイツ民族だったのだ」という喧しいキャンペーンを伴って…。
それから十年後。苛烈な戦火はようやく止んで、ポーランドにはポーランド人の手になる国家が再び樹立されていた。コペルニクスはキュリー夫人(マリア・スクウォドフスカ)、作曲家ショパンや革命詩人ミツキエーヴィチらとともに、ポーランド文化の偉大なる伝統を示す輝かしい象徴へと返り咲いていた。
「コペルニクス生誕四百八十年」がいかにも半端なことは百も承知のうえで、それでも彼らは記念切手を出さずにはいられなかった。そのポーランド人たちのやむにやまれぬ気持ちが、中学生になったばかりの小生にもわかるような気がしたのである。来るべき1973年は「コペルニクス生誕五百年」。でも彼らはそれを悠長に待ってはいられなかった。十年前の忌まわしい記憶を葬り去るためにも、1953年という「半端な年」に、二枚のコペルニクス切手はぜひとも発行されねばならなかったのだろう。