宇宙飛行士にうつつを抜かしていた小学生が、ほどなく興味の対象を天文学者を中心とする科学者たちへと移していったのは、今にして思えば単なる気紛れや心変わりなどではなかった。「勇敢な命知らず」ではなく、「科学者の地道な努力」こそが宇宙飛行や(来たるべき)月世界旅行を実現させるのだ、と気づいたのである。
もちろん宇宙飛行を可能ならしめる真の原動力としては、際限のない米ソの軍事開発競争があったわけだが、なにぶん幼くてそのことにはまだ考えが至らなかった。ただ、アメリカでもソ連でも、アストロノートたちが例外なく軍人であることに、いささか怪訝な思いを抱いたにすぎない。小生はただ、科学の進歩こそが不可能を可能にし、人類の夢を現実のものにするのだ、と素朴に信じたかったのだ。
ちょうどその頃、野尻抱影の優れた啓蒙書『天体と宇宙』(偕成社、1962)と出会い、夢中になって読み耽った影響も大きかった。プトレマイオス、コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラー、ガリレオ、そしてニュートン。これらの固有名詞が確固たる実体と意味をもって迫ってくるようになったのは、ひとえにこの本のお蔭である。小生は子供の頃から蔵書を丁寧に扱ってきたが、この一冊だけは手垢にまみれ、何十回となく頁が捲られたとわかる、よれよれの状態で今も手元にある。
もう一冊、これは相当な背伸びなのだが、岩波新書で出たばかりのコペルニクスの伝記『太陽よ、汝は動かず』(アンガス・アーミティジ著、奥住喜重訳、1962)を手にし、四百年前の天文学者の手探りの悪戦苦闘(望遠鏡も計算機もない)と卓越したアイデア(それこそコペルニクス的転回だ!)に、ただもう我を忘れて読み通したのを懐かしく思い出す。後年、大学生になってからだが、この本の訳者・奥住喜重さんと切手収集が縁で出遭うことになろうとは、当時はまだ夢想だにしなかった。
閑話休題。
さてその日、清水の舞台から飛び降りる心持ちで、生まれて初めて高額の買い物をした小学六年生が、どのような思いで家路についたかはご想像にお任せしたい。埼玉の自宅に帰りつくなり、部屋にこもって独り悦に入ったことは申すまでもなかろう。半透明のパラフィン袋から恭しく取り出し、ためつすがめつ眺め入ったのち、科学者切手専用のアルバムの然るべき場所に、その新入りの二枚のコペルニクス切手をきちんと配置すると、ふうと溜息をつく。そんなところではなかったか。
昨日もちょっと書いたように、その二枚の切手はニコラウス・コペルニクス(1473-1543)の母国たるポーランドが、偉大なる天文学者を称揚するものとしては、実に三十年ぶりに発行した記念切手なのである。その前は1923年、というからポーランド切手の黎明期に、コペルニクス生誕四百五十周年を祝した二枚があるばかり。しかもそれらは粗末なオフセット印刷、稚拙な同一図案を青と赤に刷り分けただけの、記念切手と呼ぶにはあまりに貧弱な代物だった。
今度のは意気込みからして違う。図像内容をよくよく吟味検討し、丹念に描画・版刻したうえで、緻密で格調高い凹版で刷り上げられている。祖国の偉人を顕彰するにふさわしい、堂々たる仕上がりである。
低額の20 GR(グロシュ)は渋い褐色で彩られ、その図柄は19世紀ポーランドの大画家ヤン・マテイコ Jan Matejko が描いた有名な歴史画「天文学者コペルニクス、神との対話 Astronom Kopernik, czyli rozmowa z Bogiem」(1872)を忠実に再現している。マテイコの原画をお目にかけておこう。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Jan_Matejko-Astronomer_Copernicus-Conversation_with_God.jpg
どうです、ちょっと芝居がかってるけど、なかなか格調高い名画でしょう?
フロムボルク大聖堂(聖職者だったコペルニクスの勤務先)の屋上で夜空を観測中、突如として天啓を受けて、「我、新たなる天空システムを発見せり! 」あるいは「太陽よ、汝は動かず」とでも叫んでいるところだろうか。いかにも19世紀らしい、ドラクロワばりに浪漫主義的な絵だ。
この絵画をそっくり図案化しただけあって、切手のほうも劣らず風格ある佇まいをみせている。とはいうものの、発行枚数が多かったらしく、稀少性という点では大したことなく、はっきり言ってごくありふれたアイテムなのだ。実をいえば、小生もその時点ですでに、使用済みのものなら数枚手に入れてストックしていたのである。
(もう一回続きます)