切手収集は小学生にとって、月々のお小遣いでもまかなえる、ささやかなホビーとしてまことに最適だった。デパートの切手売場ではもっぱら未使用の、それなりに値の張るアイテムが陳列されていたが、東京にいくつもあった専門店を訪ねると、世界じゅうの使用済切手が国別・発行順に分類され、個々に値付けされたノートブック(「貼り込み帖」といった)がずらりと並んでいた。それらの切手は古今東西を問わず、たいがいは一枚10円から50円くらいで買えたのだ。
埼玉の田舎に住む小学六年生にとって、バスと電車を乗り継いで東京まで出掛けるのはかなり勇気の要る冒険だった。それでも未知の切手欲しさに、恐怖心を押し殺して原宿のフクオ・スタンプまで日曜ごとにはるばる小旅行を繰り返したものである。この店は半ズボンの少年にもきちんと対応してくれ、ピンセットと鉛筆を手渡すと、あとは「さあ自由に見ていいよ」とばかりに、何時間でも放っておいてくれた。
イギリス、フランス、東西ドイツ、西ベルリン、オランダ、ベルギー、スペイン、スイス、イタリア、ヴァチカン、モナコ、オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、そしてソ連とアメリカ。気が向いたら、ギリシアやメキシコ、ブラジル、中国も覗いてみる。
古色蒼然たる戦前の切手から、色鮮やかな新着切手まで、心ゆくまで眺め渡し、気に入ったアイテムで安価なものは、ピンセットで慎重に抓んでノートから引き剥がす(ヒンジで軽く留めてあるだけなので、簡単に剥がれる)。そして手元の用紙に鉛筆で値段を書き写すのである。なにせ単価が安いので、数時間かけてねばっても、合計金額はいつも数百円で納まった。
年が改まった1965年1月のある日、小生は貰ったばかりのお年玉をポケットに忍ばせて、原宿駅を降りていつもどおりフクオ・スタンプへの道を急いだ。
でもこの日はそれまでとまるで違う、特別の日曜日なのだ。今日こそは、使用済ではなしに、ピカピカの未使用切手、それもかなり値の張るアイテムを手に入れるのだ。かねてから目をつけていた天文学者コペルニクスの記念切手二枚組。ポーランドが1953年に発行したものだ。値段はといえば、もう正確には思い出せないが、たぶん2,500円くらいではなかったろうか。いずれにせよ、小学生にとっては「天文学的」とすら思える金額であり、ずっと高嶺の花と仰ぎ見ていた。それがとうとう手に入るのである。小生の心臓はすでに早鐘のように高鳴っていた。
(明日まで続く)