(承前)
1938年3月のオーストリア併合により独墺国境は撤廃された。37年の夏、ベルリンからザルツブルクへ旅したエーリヒ・ケストナーは、為替管理上の制約から現金を携帯して出国することができず、一文無しでのヴァカンスを余儀なくされたのだった。それから半年後、両国の間にはもはや国境線は存在しなくなった。懐中にどんな大金を忍ばせていようと、もう没収される心配はなくなったのである。
しかしながら、38年の夏、ケストナーはザルツブルクを再訪しようとはしなかった。訪れる理由がなくなったからだ。ヴァルター・トリーアがこの地で舞台美術を手がける約束はキャンセルされ、トスカニーニもワルターもロッテ・レーマンも、ナチスに蹂躙されたザルツブルクには二度と戻ってこなかった。これではベルリンでオペラを観るのと少しも変わらない。
国境が消滅すると同時に、越境して旅する動機もまた消滅してしまうとは、なんという皮肉な成り行きであろうか。
その代わりに、この年、ケストナーはロンドンを訪れることにした。36年の暮、トリーアは家族と共に英国へ亡命し、この街に居を構えていたからである。
言葉の障壁を抱える作家と違い、画家は異国にあってもすぐに力量が発揮できる。ケストナーの挿絵画家としての名声はすでに英国にも届いており、トリーアはほどなく大衆月刊誌『リリパット』から表紙絵の仕事を依頼されたほか、諷刺画や絵本制作、映画タイトルの仕事などでドイツ時代と変わらぬ活躍を始めていた。この時期のトリーアの仕事については、『リリパット──ヴァルター・トリーアの世界』(ピエ・ブックス、2004)をぜひご覧いただきたい。
トリーアは子供たちの玩具を心から愛し、古いドイツの民衆玩具のコレクションをしていた。亡命を決意したときも、彼はそれらを肌身離さず、ロンドンまで持っていった。
彼は世界がどんなに邪悪であっても、この世界を愛し、それを自分の玩具箱とした。彼は玩具を愛し、それを自分の世界の一部とした。彼はあやつり人形やくるみ割り人形、クリスマスツリーに飾る金ピカの天使、砂糖菓子の人形、ガラスの動物園、薫香ろうそくを焚くエルツ山地の木製の営林署員、厩の群像、色とりどりの箱や小さな家を集めていた。それにもちろん、道化や悪魔やその他の、古いカスパール劇の指人形も集めていた。
トリーアが妻と娘と共にリヒターフェルデの家を捨て、亡命した時、彼は玩具も一緒に持ち出した。私は一九三八年に、ロンドンのシャーロット通りでその玩具に再会した。[…]
[…]私たちは複数の新しい計画を持っていた。リージェントパークでテニスもした。しかし数日後、私は取るものもとりあえずベルリンへ帰った。いつ戦争が始まるか知れなかったのだ。
エーリヒ・ケストナー「プラハから来たドイツの小さな巨匠」岸美光 訳より
慌しい邂逅だったが、それでもこのとき二人がロンドンで会えたのは幸いだった。翌年には第二次世界大戦が勃発し、戦後間もない1951年にトリーアはカナダで世を去る。享年六十一。ケストナーはもう二度とトリーアと再会することはなかったのだ。上に引用したケストナーの文章はトリーアの早すぎる死を惜しむ追悼文の一節なのである。
ケストナーの小説『一杯の珈琲から』は、ヨーロッパが辛うじて人間らしさを保持していた時代、その最後の夏季休暇の記録である。
過酷な戦争が終わり、ケストナーの著作がようやく禁を解かれドイツ国内で出版されるようになったとき、この小説は新版『小さな国境往来 Der kleine Grenzverkehr』として晴れて刊行された(旧版は『ゲオルクと突発事件 Georg und die Zwischenfälle』バーゼル刊)。
われわれが読むことのできる小松太郎の日本語訳は、この1949年の新版から訳されたものである。原本にはヴァルター・トリーアの手になる美しい水彩画が七枚収められているのだが、残念ながら邦訳では白水社版(『ザルツブルク日記』1954)にも現行の創元社推理文庫版(1975)にも、それらは再録されていない。
小生の手元には今、その1949年版の『小さな国境往来』がある。本文のそこここにトリーアの瀟洒な水彩画の複製が挟み込まれていて、去りし夏のザルツブルクの思い出をまざまざと甦らせてくれる。ちなみに、この一冊は小松太郎の旧蔵本である。書き込みは一切ないが、おそらく翻訳に使用したときに付いたのだろう、クリップの跡があちこちの頁に残っている。