一泊の小旅行から戻ってきた。
昨日も今日も薄曇りの天候で、富士山はぼんやりしたシルエットしか拝めなかった。でも、それは旅の主目的じゃないから少しも構わない。
東京・阿佐ヶ谷に素晴らしく美味しいイタリア料理店があった。あった、と過去形になるのは三年前に閉店してしまったからだ。そのお店「マルコ ガラッティ」にはずいぶん足繁く通った。とにかく独創的な味わいで、食材の活かし方が他のどんなお店ともまるで違う。
澤海さんご夫妻が二人して愛情こめて創り上げたお店が姿を消してから、もう阿佐ヶ谷駅で下車する機会もなくなってしまった。
ところが「マルコ ガラッティ」は閉店も消滅もしていなかった。別の場所に引っ越しただけなのだった。ただし、移転先が半端じゃない。新宿から高速バスで1時間40分。終点の河口湖駅に着いたら、そこからマイクロバスで富士山の裾野へ。30分ほど上り坂を走ると、広大な林に高級別荘が点在する区域に着く。山梨県南都留郡鳴沢村字富士山。「字 富士山」という住居表示に驚かされるが、ここは標高1,000メートル、富士山の一合目なのだ。
この新生「マルコ」を訪ねるのが今回のぶらり旅の目的だ。
昨夕、家人とともにバスを降りたら、愛犬を連れた「マルコのママ」和江さんが出迎えて下さった。三年ぶりの再会。いたってお元気そうだ。ひとしきり立ち話したあと、散歩の途中という彼女と一旦別れて、ひとまず近くの宿舎で旅装を解く。
和江さんから手渡された地図を頼りに、迷路のように入り組んだ道をてくてく歩く。丸紅富士桜別荘地の一郭に、一見したところ瀟洒な別荘としかみえない一軒家がある。玄関に MARCO GARATTI の文字。ここだ。間違いない。
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澤海さんご夫妻がこの地に店を移して三年。時間をかけて少しずつ手を加え、今の内装を創り上げたという(床の大理石もご主人が自ら敷いたそうな)。レストランというよりも、澤海さん宅の居間に招かれたような、居心地の良い空間。みると、テーブルも椅子も、置物のあれこれも、阿佐ヶ谷のお店にあったものばかり。ああ、ここはやっぱり「マルコ」なんだ、と胸がいっぱいになる。
さっそく赤ワインが注がれ、お任せ料理が次から次へと供される。どれもこれも絶品。
こちらへ移られて、レパートリーもぐっと広げられたようだ。ここ鳴沢村はキャベツと玉蜀黍が名産なのだそうで、当夜も玉蜀黍の自然な甘さを生かした幾品かが目を引く。それから、馬のトリッパ(胃肉)の一皿の美味しさといったら! このあたりでは馬肉食いがポピュラーなのだとか。パスタがどれも逸品なのは阿佐ヶ谷時代から変わらぬ「マルコ」の特色だ。
それにしても東京から富士の裾野への転居は意外だし、心底びっくりした、と感想を漏らすと、ご夫婦曰く「十年以上前にこの地に別荘を買って以来、こっちで暮らしたくて…」「慌しい東京では本当にやりたいことができない」。のんびりできていいですねえ、とこちらが不用意に言ったところ、「実際に住むと、田舎暮らしはスロー・ライフどころか、やることがいっぱいあって忙しいんですよ」と切り返される。とりわけ、冬支度が大変そうだ。うかうかしてると水道管が凍りつき、破裂する。なにしろ、零下十七度まで下がるのだという。
はるばるやって来てよかった。澤海さんご夫妻の充実した人生に心うたれた。とても真似できっこないけれど、刺激だけは大いに受けて帰ってきた。
帰りの高速バスは大渋滞に巻き込まれ、新宿まで三時間半以上もかかった。相模原あたりですっかり暗くなり、府中では左に競馬場、右にビール工場と、中央フリーウェイの夜景を楽しむ。ユーミンの歌とは左右が反対なのであるが。