デンマークの天文学者ティコ・ブラーエ(1546-1601)は、近代科学の黎明期を生きた人物である。裕福な貴族として生まれ、広大な領地に大掛かりな私設天文台を築いて、恒星と惑星の観測に没頭した。ティコが丹念に書き綴ったノートは、望遠鏡発明以前における最も正確で信頼に足る観測記録である。彼の晩年に助手を務めたヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、師の遺した記録類を徹底的に解析することにより、惑星の運行に関する有名な「ケプラーの三法則」を導き出すことができた。
16世紀後半、ヨーロッパの天文学界ではコペルニクスが提唱した太陽中心の宇宙モデル(地動説、1543発表)が大きな議論を巻き起こしていたが、ティコ自身は古代ギリシア以来の地球中心説(天動説)にも、コペルニクスの新説にも与することなく、両者を折衷した第三の説(水・金・火・木・土星の五惑星は太陽を中心に周回し、太陽は惑星を引き連れたまま、地球のまわりを回る)を唱えた。これは誰の目にも中途半端な学説であり、ガリレオら次世代の学者たちに一蹴されてしまう。
前近代の天文学者の例に洩れず、ティコもまた占星術を信奉しており、パトロンである王侯の求めに応じて、しばしば彼らの運勢を占ったほか、卑金属から黄金の精製を試みる錬金術にも深い関心を寄せていた。天体(マクロコスモス)と人体(ミクロコスモス)とが密接に照応するという考えは、長くヨーロッパ学界で信奉されてきた理論であったから、ティコがそれを従順に受け継いだのは怪しむに足らない。
ティコの永年にわたる粘り強い天体観測は、その頑健な肉体によって支えられていた。生涯を通じてほぼ病気知らずだった彼が、プラハで催された晩餐会の席上で膀胱に痛みを覚え、十日間の苦悶ののち急逝したのは天文学上の痛恨事である。享年54。彼の許には膨大な観測資料がほとんど手つかずのままで遺された…。
この不世出の天文学者のあまりにも唐突な死に、疑問を投げかける書物が刊行された。ジョシュア・ギルダー&アン=リー・ギルダー著『ケプラー疑惑─ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江訳、地人書館、2006)がそれである。
著者たちは1991年にティコの墓があばかれ、その遺髪が法医学検査に付された際の調査結果に着目する。最新のX線分析によれば、ティコの頭髪には異常に高濃度の水銀の残留が認められた。精査したところ、死亡の十日ほど前、さらに13時間前の二度にわたって水銀を大量摂取したことが明らかになった。もちろん投薬などなんらかの医療行為の結果である可能性も否定できないが、この本の著者らはさまざまな状況証拠の積み重ねから、水銀化合物の致死的な服用、すなわち毒殺の公算がきわめて大であると結論づける。
もしそうだとしたら、下手人はいったい誰なのか。殺害の動機はなんだったのか。
(次回に続く)