ニワトコという植物をご存知だろうか。漢字では接骨木と書く。スイカズラ科の低木で、春になると淡い黄白色の小さな花をたくさん咲かせる。もっともこれは今しがた調べて得た知識であり、正直なところ、どんな植物なのか皆目わからない。
丸谷才一のエッセイでこの植物について読んだ記憶がある。どうにもうろ覚えなので、せんだって図書館で調べてみたら、『低空飛行』(新潮社、1977)という本にたしかにこんな話が載っていた。
遠い昔のこと、一高の英語の先生に変わった人がいた。教室で英文和訳をやっていて、ちょっと聞き慣れない難しい植物名が出てくると、平気の平左で全部「ニワトコ」と訳して済ませたのだそうな。
つまり、こんな具合である。
「翌朝、二人の兵士が眼をさますと、若さといふのはありがたいもので、三日にわたる長途の旅の疲れは、深い眠りによつて完全にいやされてゐた。二人は自分たちが鬱蒼と生ひ茂るニハトコの大森林のなかにゐることに気がついた」
そして三ページくらゐさきへ進むと、今度は、
「彼は彼女にニハトコの花を渡して、あなたの瞳はこのニハトコのやうに美しい青だ、と言つた」
前の「ニハトコ」と後の「ニハトコ」の英語が違ふなんてことには、ちつともこだはらないのである。
著者はさらに続けて、「これがほかの、たとへば『サルスベリ』や『イチヰ』ではうまくゆかない」「『ニハトコ』といふ判つたやうな判らないやうな名だから万能なのだ」と締めくくる。
ニハトコ、もとい、ニワトコは英語では elder という。辞書を引くと「セイヨウニワトコ」とあるので、日本のニワトコとはちょっと違う種類らしいが、やはり春から初夏にかけて白っぽい花を咲かせるそうだ。
1993年に初めてロンドンに行ったとき、たまたま入ったナショナル・ギャラリーのカフェで、メニューに elderflower cordial とあるので、興味を惹かれ注文してみた。
出てきたのはグラスに入った透明な液体。ほとんど無色だが、かすかに黄色味を帯びている。飲んでみると、ほのかな甘味と香りがあり、捉えどころのない飲物なのだが、口に含むと懐かしい気持ちがして、不思議に心身が休まる。
elderflower というからには、これはニワトコの花から抽出したエキスなのだろう。英国ではかなりポピュラーな飲物で、ボトル入りで手に入るよ、と教えてくれた人があったが、ホテル近くのスーパーでも酒屋でも、セルフリッジ百貨店でも見かけなかった。探し方が悪かったのかしらん。
以来、ロンドンへ行くたびに、同じ美術館のカフェで同じ飲物を注文するのが慣わしとなった。残念なことに、数年前にこのカフェは大きく様替わりして、elderflower cordial はもうメニューにない。
こんなことを話題にしたのは、今日とあるハーブ・ショップの店先で、偶然にこの飲物のボトルを目にしたからである。ラベルにはたしかに elderflower cordial と書いてある。
もちろん買って来ましたとも。これから栓を開けて飲んでみるところ。